2009年 05月 21日

世襲政治への覚書/続

堀田善衛の「ミシェル-城館の人」の第一部争乱の時代を読み終えた。
時代は16世紀半ば、世界史的知識ではルネサンスと宗教改革の時代として教えられ、近代への燭光が
仄見えた時代に生きたモンテーニュの時代の物語。
同時にそれは、聖バーソロミューの虐殺事件で後世に伝えられるカトリーヌ・ド・メディシス、ルターとともに
宗教改革の指導者カルヴァンの時代でもあった。

歴史は、中世から近代へと向かって、着実に一歩一歩前進し、明るさを増していくというような、単調な歩み
を決して歩んでは来なかった。
「争乱の時代」に書かれているように
ルネサンス期(文芸復興期)は、その裏側において、「精神の暗黒部をもっとも露骨に示した、かつはもっとも
非理性的な魔女裁判の最盛期でもあったのである

宗教改革運動は、中世権力の頂点に立ち退廃を極めた旧教に対するプロテスト運動であるのみならず、
宗教的装いの下に繰り広げられた王侯貴族間の熾烈な権力闘争や新たに台頭してきた商人階級の政治的・
社会的進出への思想的支柱でもあり、それ故にまた神の名の下にありとあらゆる残虐行為(旧・新教の両側
で)が美化されもしたのである。

このような時代に生きたモンテーニュの透徹した人間観察は、四百数十年の時を隔てて、安易な世襲政治
へと回帰する我々への警鐘のようにも聞こえる。
人間の評価について不思議でならないのは、それはわれわれ人間だけを除いて、あらゆるものは
そのもの固有の特質だけによって、評価されるということである。われわれが馬をほめるのは、逞しく
速いからであって、(中略)馬具が立派だからではない。猟犬をほめるのは、足の速さのためであって
首輪の美しさのせいではない。鷹をほめるのは、その翼によってであり、革紐や鈴のせいではない。
なぜ同じように、人間を彼自身の価値によって評価しないのだろうか。ある人は大勢の供回りと、立派
な宮殿と、あのような信用と、あれほどの収入を持っているが、これらはすべて彼の周辺にあるもので
あって、彼の内側にあるものではない
。猫を袋に入ったままで買う人はいないだろう


ところが我々は、誰それの息子だ・娘だ、何々で有名だというそれだけの理由で、袋の中身を吟味しないまま
相手の言値で買っているのだ。そういえば一昨日引用したエコノミスト誌に、こんな一節があった。
もちろん有権者側にも非がないわけではない。これまで、日本の有権者は与えられたものをあまりに簡単に
受け入れ、「政治の弁当箱」が空であると分かった時でさえ、それに甘んじてきた。

バナナ共和国と揶揄されたところで、なんと反論できようか?!
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by agsanissi | 2009-05-21 00:25 | ミミズの寝言


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