2012年 01月 03日
・昨夜21時過ぎに寝て1時過ぎに目覚める、いったんは再度眠る気するが、眠気もなければ起きだして【断腸亭日乗】を引き続き読む ・4時、血糖値は高すぎても低すぎても悪いし、平均値はある程度低くても、ジェットコースターのような極端な変動のある場合より、 ある程度平均値は高くても偏差の小さいほうが合併症のリスクは小さいと分かっている(但し、定量的には不明確で目安程度の ことしか分からない)。血糖値の変化を平準化するには、食事との関係だけで考えれば(取り敢えずアドレナリンやグルカゴン等、 インスリン以外のホルモンの影響を無視して)、食事の摂取を平準化して、極度の空腹に陥らず・満腹にならず・日常的活動に耐えら れる程度の食事を、時々摂るようにするのが良い。他の仕事に比べれば農業は自由業みたいなもんだから、比較的自由が利く けれど、農繁期中はそれでは多少不都合な面もある。 ・昔、冬山登山をしていたときには、煮炊きが一苦労なので、炒り豆・チョコレート・コンデンスミルク・コンビーフなどを小分けして ポケットに入れて、空腹になると食べながら歩き続けるようなことをやっていたが、登山中のように一時的ならそれもよいが、いろ いろな栄養バランスを考えると、生涯それを続けるわけにも行かないし、多少、それでは味気ない気もする。 ・バーンスタイン医師は、その著書で食事は「満腹にするのではなく、空腹を感じなくなったら止める」と忠告しているけれど、昔から いう”腹八分目”よりちょっと少なめといったところか。まずは、一回の食事をその程度に抑えて、あとは自然に任せれば自ずから一日 の食事回数も落ち着くところに決まるだろうから、その間に二時間おきの血糖値を測定すれば一日の血糖値の変動パターンと自分 のインスリン反応のパターンをある程度推定できるかと、4、6、8、10、12、14、16、18、20時の9回測ってみることにした。 ・いままで、この三年間に数百回測定しているが、食事内容のパターンに沿って食前と食後の1時間、2時間、3時間後の変化を 測定してきた。何を食べて、どんな運動をすれば、血糖値がいくらになるかという予測は、大体つくようになってきた。それでも時に、 全く予測外の数値が出たり、ほぼ九割方同じ食事をしても違った測定値が出て面食らうことがある。一回一回の外部的な栄養物の 摂取だけでは一義的には決まらず単純には捉えられぬ複雑な面がある。 ・今度は、食事形式のパターンで、血糖値がどのように変化するかを測定する試みだ。今朝、4時に測ろうとしたところ、なんと採血 器具が不調で測れない。ちょっと延期!! ◆日記を読む楽しさ ・【日記に読む近代日本】に触発されて永井荷風の【断腸亭日乗】を読んでいる。今朝は全集版22巻所収の昭和十一年から十三、 十四年あたり。前にも書いたとおり、荷風(であれ、誰であれ)の個人的生活には関心がない。時代の変化を同時代人がどのように 感じていたか、受け止めていたか、さりげない日常的記録の中に、それを発見するのが楽しみだ。 ・これを強く感じたのは、昔、山田風太郎の【戦中派不戦日記】を読んだ時に、いわゆる十五年戦争時代の歴史書から捉えていた (ないし描いていた)一面的な暗いイメージとは全く違った側面が描かれているのを発見して、歴史というのは、事実そのものでは なく、所詮、歴史家のイメージで描いた一面的絵巻にすぎないと気づいた時だ。 ・日記の多くは、個人的体験をもとにしている。いうまでもなく個人的体験は、ごく限られた範囲の(空間的・時間的に)一面的見聞 でしかない。例えば、僕が岩手県北部沿岸地方の普代に住んでいるというと、今度の大震災で「どんなにか恐ろしい経験」をしたか に錯覚する人が多いけれど、現実は地震そのものは気づいたし、ちょっと大きな地震だったかなとも思ったけれど、津波のことのも 被災状況もニ日間ほどは、殆ど知らないままに「停電で不便だな」と思ったくらいで、常と変わらぬ生活を送っていた。 ・直接的体験とテレビ・ラジオ・新聞などによる「加工された情報」による知識とでは、多かれ少なかれ、このような落差がある。 これはどっちが正しくて、どっちが間違っているとかの問題ではない。一面的という意味では、その「一面性」の意味に多少の違いは あるにしても、どっちも一面的である点に違いはない。 ・日記は、原則として「過去」の記録で、日記の時点から見て「未来」の事実は反映されない。歴史は、対象となる事柄の「未来」から 振り返って書かれる。後知恵が働くし、俯瞰的見方ができる。日記でも俯瞰的観察はできるが、その時々の「現在」を踏まえた俯瞰 にとどまる。何よりも後知恵が働かない。それ故、却って貴重ではある(とは云え、後知恵を加えて改竄される可能性がないとは云え ぬ)。 ・尤も、日記にも様々な性格のものがある。全くの個人的記録、最初から出版を目的としたもの、将来の訴追に対する弁明・弁疏の ためのもの、全くの公的記録や新聞記事の如き記録的なもの、同時代史的記録、思索的日記、事実のみの記録等々。 ・日記に類似するものに書簡集がある。昨日、メレジュコフスキーの【神々の復活】が岩波文庫から出版されたのがいつだったか (手元の文庫本はページがなくなっているので)、多分、昭和十三年頃だったが、確かめようと検索したところ、偶々、宮本百合子の 宮本顕治宛の【獄中への手紙】(1945年)が引っかかった。いろいろ獄中の宮本顕治(戦後、二代目の共産党書記長)に本を差し 入れている中の一冊にメレジュコフスキーが入っていた。手紙を読んでみると小林多喜二の【党生活者】などから受ける印象とは 違った側面が浮かび上がってくる。 ◆MediaMarker;Myバインダー《読書日誌》 ・《読書日誌》は、概ね一年間、更新もしないで放置してきた。読書といって、普段はまとまった読書もできないから、折に触れて 【日々雑纂】で触れるか、右欄の「ライフログ」に挙げるにとどめてきたが、ちょっと思う所があって再開することにした。いつまで続く か、時間次第・気分次第の面もあるが、まあ、取り敢えずやってみる。 ・日経の新聞広告に【脳を創る読書】という本の広告が載っている。《なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか》という副題が付いて いる。単なる情報の媒体として本を見れば電子書籍だろうと紙だろうと変わらない気もするが、難解な書物を何ヶ月もかけて「読破」 したという実感や、バルザックやディケンズの文章を味読するという味わいは「電子書籍」では得られないのではないか。こんなこと は、老人の単なる感傷で、媒体の違いに解消できるのだろうか。検索とか参照の便宜や、そもそも保管場所のことを考えれば、 優劣は明らかだ。 ・前にも書いたが、最近僕は大概の本は読んで後、破いて捨てている。必要なページだけ残してホッチキスで止めて整理して保管 している。大概は数ページ、多くても十分の一程度に圧縮される。全体を繰り返し味わって見たい本はあるもので、これは破るわけ にはいかない。これを電子化して保管すればどうか。本それぞれに独特の個性があって、その個性は内容と不可分に結びついて いるような気がする。電子化してしまえば、これは多分、失くなるだろう。ということは、電子化によって失われるものがある、ないし 電子書籍でしか読んだことのない人には味わえない”何か”があるということにならないか。 ・Amazonの、この本の内容紹介に「本書では、『言語脳科学』の第一人者が、その問いに学究的な視点から真摯に答えている。 脳の特性と不思議を説き、読書が脳に与える影響に言及しつつ、実際に「紙の本」と「電子書籍」を使って読書した場合の脳の反応 について解説する」とある。ちょっと面白そうかなと思う反面、「紙の本も電子書籍も、結局は「使う側」の意識がカギを握っていると しながらも」との一文を見ると、まあ、そんなところかなとも感ずる。 -------------------------------------------------- 【2011年1月は何をやってた??】
by agsanissi
| 2012-01-03 06:16
| 日々雑纂
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