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2006年 02月 07日

「言霊の国」・日本


言葉にこだわったついでに、もう少しこだわってみるか。

太田述正コラム「ホントのコワーイ話(その1)」で、自分の経験を例に「コトバが鴻毛
より軽い国日本」と書いておられる。まことに、どこにでもありそうな笑える話だ。

半年ほど前に「耕す生活」に「暗黙の合意または仲間社会」を再掲したことがある。
そこで、僕は
暗黙の合意で獲得された意識を共有する集合体を仮に「世間」と名づけると、日本
社会の特徴は小「世間」からなる複合的・重層的「世間」の集合体だ。
と書いた。

太田さんのコラムを読んでみると、コトバが二通りの受け取り方をされているのが良く
分かる。
1.文字通りコトバとしての独立した受け取り方
2.太田さんを取り巻く「関係社会」のなかでの独特な受け取り方

太田さん自身は、コトバ及びコトバによって表現された自分の思想を、1の意味でのみ
使っており、例えば僕も原則としては、1の意味でのみ理解している。
太田さんとの具体的な接点を持たず、一切の人間関係を持たない場合には、第三者
が太田さんを理解するにはコトバを通すしかないし、コトバが文字通り1の意味でのみ
機能してくれないと困る。

ところが太田さんを取り巻く実際の人間関係の中では、コトバは1の機能をまったく
果たしておらず、コトバは「鴻毛の軽き」に扱われている。
なぜ、そんなことが可能なのか?

同じ職場で仕事をした仲間、一緒に汗を流した仲間、同じ釜の飯を食った仲間..など
の「関係」の中で培われた仲間意識がコトバに優先し、その仲間社会の中ではコトバは
独特の理解のされかたをし、矯められるものと、暗黙の了解に立っているからだ。
まことに「和を以って尊し」とする国と云わねばならぬ。

一方、かつて「言霊の国」とも云われ、コトバがいかにも尊重されて来たかに見える。
しかし実際に尊重されたのは、コトバよりも仲間意識であり、仮にコトバが仲間意識の
媒介になった場合にも、さらにコトバの内容と仲間意識が本来は背馳し・相対立する
場合にも、コトバ本来の意味を離れて、仲間社会を固める独特の呪力を発するものと
理解されたのではないか。

「尊皇攘夷・倒幕」といえば、それだけでいかなる議論も封じ、「国体護持」といえば
その前にひれ伏し、「独立・民主・平和」といえば、それだけで仲間意識を培い、何ら
かの大義名分を握れば、それだけでいかなる議論をも封じてしまう力を発する呪力を
担うものと考えられてきたのではないか。

というわけで、一つの仲間社会と別の仲間社会との間に共通の言葉はなく、同じ言葉
を使って議論をしても、議論はかみ合わず、相通じることはなく、お互いの仲間意識を
固めるだけの徒労に終わったという経験を、皆さんはされたことがないだろうか??

かくて最も主義主張を重視する公明党や共産党でも、実際に党員を確保するため
には、綱領よりもまず人間関係が重視され、逆になにかの関係が出来さえすれば
綱領そっちのけで政党が結成され、政党という仲間社会の前では個人のコトバなど
鴻毛の軽きに扱われる。

◆◆ 畑を耕し、自分を耕し、世間を耕す、【耕す生活 ◆◆
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by agsanissi | 2006-02-07 05:26 | ミミズの寝言


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