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2007年 01月 25日

情報と戦略

「情報と戦略」と表題をつけてみると、軍事論でも論じるようだけれど、さに非ず。

近所に孫が住んでいる。
朝、「腹が痛い」と云ってると我家に連れてきた。普段は保育園に通っているが、土曜日で休園
だったので寝かせたおいた。前々日、僕自身が多少吐き気を催したこともあって、ノロウィルス
かとも疑ったが「お腹が痛いときは食べないで寝ているのが一番だ」と云って寝かせておいた。
間もなく元気になったし、食欲もあったから、後から思えば、単なる便秘だったようだ。
夕刻、またまた「お腹が痛い」と云い出した。今度は、状況からニセ情報を掴ませて「嫌いなもの
を食べない」戦略だな、と慧眼なお祖父ちゃんに直ぐに見破られてしまった。

ある目標を定めて、情報を集めることは、誰でもやる。自分に都合の良い片寄った情報だけ
を集めて間違った判断をしたところで、自分の責任で他人を責めるわけには行かない。
株屋の儲け話を真に受けて大損したとして、儲け話をした株屋の責任か、それを真に受けて
投資した自己責任か。「儲け話」をでっち上げれば責任の所在は、ある程度明確だが、株屋
自身がその「儲け話」を真に受けていたとすれば、責任の分担はどうなるか?
この手のトラブルを避けるために、「投資するときは、自己責任で」と注意書きを付けることが、
最近では一般化した。
バブルの時代に、土地の値上がりを当て込んで土地を担保に過剰融資をして国際金融危機の
引き金になるほどの不良債権を抱え込み、何兆円というその大損を税金でチャラにして金融
危機を「救った」この国の政治・金融の指導者諸氏の責任の取り方・取らせ方は、情報処理と
その判断に伴う責任の取り方という視点から考えると、適切だったのかどうなのか?
政治指導者を選ぶときは、自己責任で」という注意書きを投票所に掲示する事は、まだこの
国では行われていない。尤も、他人の誤った判断でも共同責任を取らされる所が厄介だが、
少なくとも選択しうる機会があるだけでも良しとせざるを得ぬのか。とはいえ選択幅そのもの
の狭隘化は如何ともし難い。

ある目的を達するために、意図的に特定の情報だけを集めたり、提示したり、目的に沿った
改変をしたりすれば、目的の狙い・対象・レベルに応じて、ウィット、マジック、嘘、捏造、謀略
などと様々に呼ばれる。情報操作は、例えば相手の錯覚を利用すれば、情報を示す順番を
変えるだけで、あるいは提示する環境を変えるだけで、敢えて偽情報を使わなくとも目的を
達せられる。

仮に特定の「目的」を持たぬにしても、情報は、それが「情報」として客体化されたときには、
必ず選択され、加工され、操作されているのであって、選択も・加工も・操作も受けない「生の
情報」はそもそも有り得ない。
患者に医者が聴診器をあてる。音が聞こえるとして、その「音」から得る情報の量と質は、医者
の知識と経験に依存している。知識も経験もなければ、単なる音で医療情報にはならないか、
別の誤った情報(「何か」が潜んでいる)を引き出すかも知れない。
地中から掘り出されたばかりの考古学的資料にしても、それ自体は「生の情報」ではない。日本
の旧石器時代論争を見れば分るように「遺跡」としての認識そのものが、選択・操作の結果で
ある(参照)。

歴史では、日記や書簡、あるいは同時代の記録は、しばしば一次史料として扱われるが、
選択・加工・操作を受けているのは云うまでもない。例えば自分の一日を細大漏らさず全部
記録する日記など、そもそも書けるだろうか。日記として客体化するとき、選択・加工・操作は
不可欠のプロセスだ。従って日記を史料として使うには、予め史料批判は不可欠の操作に
なる。

テレビ番組の多くは、ニュース報道を含めて、所詮は視聴率競争の賜物であって、視聴率を
取るために多少の誇張、脚色、編集は不可欠のものですから「テレビに基づく情報の利用は、
すべて自己責任でお願いします
」とテロップを流し続けるようにしたらどうだろうか??
たとえ事実にしても、剥きつけな事実の表示は、余りに興ざめだろうか。それなら特定番組の
担当者の降格・解雇で責任を取ったふりをして(臭いものにそそくさと蓋をして)、全体の信頼性
を救済するに如くはない。この国の知的・文化的レベルに相応した責任の取り方だろうか。
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by agsanissi | 2007-01-25 13:53 | ミミズの寝言


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