農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

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2007年 07月 05日

「土」を思う

16.5/20.1度、日照1.9時間、ほぼ終日霧に覆われる。夜半から雨。

c0048643_22485672.jpg早朝、北東風に乗って海霧が本村に侵入してきた。
こちらは厚い壁のように押し寄せてくる本隊から千切れて
流されてきた分遣隊のようなもの。海に突き出たリアス式
海岸の岸壁の突端に立つと、まるで陸と海とのせめぎ合い
が演じられるように、時に力尽きて懐深く攻め込まれ、
時に沖合いに、押し留めているかに見えることがある。
それに応じて、わずか数キロを隔てるだけで日照時間に
天地の開きが出来ることも、ヤマセの時期には珍しくない。

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農に携われば
「上農は草を見ずして取り、中農は草を見て取り、下農は草を見て取らず」という俚諺を
一度は耳にしたことがあろうか。さしずめ自分は上農と下農を、一番多く演じているな。
中農を演じることは滅多にない。でも、「段々、上農に近づいてきただろうか」と慢心して
忽ち下農に叩き落されることが、一番多いだろうか。

尤も、今日の話柄はそれではない。
「下農は雑草をつくり 中農は作物をつくり 上農は土をつくる」という俚諺は、どうか?
昔の人はうまい事を云うと、思わず笑ってしまう。自分はどれかなどと頭を悩ませず、
ここは先ず笑って過ごすに限る。ところで、これは更に「上々農は人を作る」と続くの
はご存知だろうか?

その意味を、常々、考えている。

「樹を見て森を見ない」という。部分に捉われ、全体を見失うことを云う。作物で云えば、
地上部ばかり見て、地下を見ない。茎葉に捉われ、根に目が届かないということだろう
か。或いは作物の全生涯を見ないで、生り物が取れた取れないの、美味いの不味いの
にばかり捉われることだろうか。
茎葉と生り物しか見えないのだから、そこに目が行くのは仕方ないけれど、見えるもの
を通して、見えないものを見るのが、茎葉を通して地下の根を思い、根を通して土を思
うことだろう。事物の本質を考えるとは、結局、そういうことだ。

唐突なようだけれど、「講読の部屋」(参照)に摘記を載せたことがある「はじめに土あり」
の中で、中嶋常允さんが「科学文明の進歩によって、人間の官能はある程度満たされ
ましたが、大切な生命の炎は薄らいでいるようです。...科学文明によって健全な作物
が育たなくなり、農村が疲弊し、それにつれて人間の健康が蝕まれていると感じてなり
ません」と書いたのは15年前のことだけれど、事態は多少とも改善されたのだろうか。

人はここから、飽食の時代といわれながら「食をめぐる事情」は危機的な状況に陥って
いるとか、化学肥料に依存した現代農業の危険だとか、農政の貧困による農村の疲弊
とかを思い浮かべるだろうけれど、僕はそれは多少違うと考えている。要するにそれは
目に見えるものを見ているに過ぎないと考えている。

「作物は土から、人はその作物から生きる糧を得て成長し、生命を維持しています。源
をたどればいずれも大地に行き着くことになります。作物は土壌中からいのちに必要な
養分を選択して吸収し、人に受け継がれます」と中嶋さんは書いているけれど、この言葉
の意味、土と作物と人との不可分の関係を、その「関係」の意味を、簡単に分かったとは
思わず、繰り返し繰り返し考えることから始める必要があるのではないか。

分かったは分からないの始まり、分からないは分かったの始まり。
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by agsanissi | 2007-07-05 01:08 | 考える&学ぶ


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