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2007年 07月 13日

土を考える/超科学主義/4

10日夕刻から霧雨または雨、気温は14-16度で推移。小麦刈り当分延期。

栽培に関する福島さんの考え方の要点(米麦連続不耕起直播に触れなければ全くの片手
落ちだとは承知しているが、僕にはこれについて何かを書けるほどの経験はない)は、前回に
書いたことで充分だ。しかし「わら一本の革命」を再読するうちにその反科学主義、福島さんの
立場に即して云えば超科学主義とでも云うべきものに触れてみたくなった。

歴史的に見れば、自然を認識する方法は科学的方法が唯一のものではない。大まかに言え
ば神話的・神秘的、哲学的、宗教的、科学的な認識方法があった。大方の科学者はそうとは
自覚していないけれど、科学的方法が唯一絶対のものでも、多分、最終的到達点でもないと
僕は見なしている。しかも近代の科学的認識方法はわずか4-500年の歴史を持つに過ぎ
ず、当初は長い間、宗教(神学)の奴隷でしかなかった。
科学技術の長足の進歩は、一面では高度な文明を築き、人類に多くの恩恵を齎したとはいえ、
その政治と経済への従属の結果、早くから科学技術は不信を買っている。しかし地球環境問題
にしても、食糧問題にしても、今のところ科学技術に依存するほか成す術がないのも事実だ。

「自然に返れ」という叫びは、明らかに科学技術によって自然を恣に改変できると錯覚する
科学の傲慢に対するアンチテーゼ
だ。その叫びの中には素朴な反科学主義もあれば、高度
な哲学的・宗教的認識もあれば、哲学的・宗教的認識を装ったペテンもある。単に流行に便乗
しただけの俗悪な商業主義もある。思想史的に見れば、自然農法もまたこの流れの一部と見
ている。

科学的知見に従ってあれこれやることが如何に逆立ちした考え方かということを、福島さん
は、こう書いている。
普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、
ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っているので
すが、それでは忙しくなるばかりでしょう。
私は、それとは逆なんです。普通行われている農業技術を一つ一つ否定していく、一つ一つ
削っていって、本当にやらなきゃいけないものは、どれだけか、という方向でやっていけば
百姓も楽になるだろうと

自然の土というものは、放っておいたら自然に肥えてきて肥料なんか入れなくてもいいよう
になっているんです。それを人間がいためつけて、力をなくしてしまっておいて、そこを出発点
とするから、肥料の効果が出ているように思われるに過ぎないのです

肥沃な土と健全な作物を作れば、化学肥料も農薬も必要ないんだとして、こう云っている。
人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を作り出している
から必要になってくるだけのことであって、病気のない人間にとって、医学も医者も必要では
ない、というのとおなじことです

また科学的認識の限界について、こう書いている。
科学者というのは、如何に自然を研究しても、自然というものは、きわめようがない。どこま
で研究していっても、自然というものは、如何に完全無欠なものであるかということを知るに
しか過ぎない。...だからそれをまねして、人間がそれ以上のものを作れると思ったりしたら
とんでもない間違いでもあるし、それは一つの悲劇の材料を作ったに過ぎない。..ですから
百姓が仕事をするという場合、自然に仕えてさえおればいいんです


では、なぜ、この農法が単なる反科学主義ではなく、超科学主義なのか?
それは前回、孫悟空とお釈迦様との関係で書いたことが一つ。二つ目は、実質的に同じこと
だが農法の技術的進化という点から見て。ある社会経済史学者との対談で
千年前の農法というのは、田を鋤かなかった農法で、それが徳川時代になった三、四百年
前から、田を鋤く農法が入ってきた。さらに西洋農法が入ってきて、深く耕す農法になってき
たとしても、問題は未来で、私は次の時代は浅耕農法から不耕農法になりますよ、と断言し
ました
」と書いている。さらに米麦連続の不耕起直播の農法は「近代科学を否定して、その
反対の方向であるように見えて、実を言うと、近代農法の最先端の農法である


僕自身は、前にも書いたように農業は科学(の対象)だと心得ている。それが僕が農業に接近
するに際して、最も確実で手近な方法だとも考えた。ところで自然を認識する科学的方法とは、
どういうものか?
科学が専門でもなんでもない僕が云うのもおこがましいが、分析と総合、演繹と帰納、実証
と再現が科学的方法の要諦と心得ている(個々の説明はそのうち)。しかしそれが自然を認
識する唯一の方法でも、必ずしも最高の方法でもないとも考えている(というより、感じて
いる
というほうがより正確か)。
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by agsanissi | 2007-07-13 05:32 | 考える&学ぶ


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