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2007年 07月 14日

反科学主義の必然性/土を考える/番外編

13.8/15.1度、とうとう今日も終日霧雨、または小雨が続く。数年前、麦刈りの最中に
訪れた秋田の友人が「これだけ雨が多くても穂発芽しないのは、低温のせいなんだな」
というのを聞いて、こういうのは、果たして「何が幸いするか分からない」と云うべきか?
などと考えたもんだ。

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自然を恣に改変できると錯覚する科学(者)の傲慢の例は枚挙に暇がない。
・大規模潅漑施設によって砂漠を緑野に変える構想(参照
・高収量品種の開発によって土地面積当たりの収量を飛躍的に向上させ飢餓を
一挙に解決しうるとする緑の革命(参考1参考2
・第二次緑の革命とも云うべき遺伝子組み換え穀物(ダイズ・コーン・コメ)の開発(参考

農業のみならず、畜産・食品・医薬産業など、当初は「夢の技術」と喧伝され、やがて大規模
な災厄を齎して消えていった技術はいくらもあるし、この消去リストに加えられる新たな候補
も次々と開発されている。
数年-数十年の短いスパンで消えていったものもあれば(個々の農薬・医薬品・食品や技術)、
数十-数百年のスパンでその真価を問い直されるものもある(化学肥料と農薬に依存した
工業的農業や地球的規模で環境・生態系を撹乱してしまった現代文明)。
科学技術が最初から権力と企業の走狗であった場合もあれば、善意の意図が裏目に出た
場合もある。工業的農業や現代文明のように、それ自体の進化が環境の激変を生み出し、
自分の存立基盤を掘り崩し・脅かしている場合もある。

なぜ、このような錯誤が起きるのか?
目的論としてみれば、自然の摂理を忘れて(あるいは無視して)科学技術によって自然を恣
に改変し、企業的利益や人為的目的に利用しうると考えることである。卑近な例では作物と
土壌の適合性を無視して「地域ぐるみ」の画一的生産に走ることもそうだし、効率的肉牛生産
のために草食動物に同種属の骨肉辺を食わせることもそうである。時として、拙速主義や儲け
に焦って自分自身、そんな愚を犯していると反省することもある。
科学そのものの限界という点から見れば、科学は単に自然のほんの一部を垣間見ているに
過ぎないのに、その全体を見ているかに錯覚し(これが「自然の摂理を忘れる」というとこと
だから、結局は前者と同じことだが)、自然を人為的目的に沿って改変し、自然の逆襲を受け
ることである。大規模潅漑施設による砂漠化や緑の革命の逆襲、多分、除草剤耐性を持つ
遺伝子組み換えダイズとか虫害抵抗性タンパク質を組み込んだ穀類の開発などの「夢の技術」
も、その目的論的立場からみれば、早晩、過去の誤りを踏襲する可能性があると考えない方が
無理である。どんな技術であれ、それが導入された当初は「夢」と見なされるだけの合理性が
あるが、やがて科学がいまだ見えない事実を如何に無視していたかを思い知らされてきたので
ある。科学は、単に自分に見えているものだけを見ているに過ぎないのに、あたかも全体を見
ているかに錯覚し、卑小な科学者ほど深い錯覚の蒙昧に陥る。儲けに目が眩めば、見るべき
ものも見えなくなる。

実証的精神は科学的方法の要諦だけれど、科学者がいつでも事実に忠実であるとは限らない。
権力や企業の走狗に過ぎない例はいくらもあるし、逆に反権力・反企業的立場に立っている
場合にもその立場のバイアスのために実証精神を失う場合もある。単に自分の半生をかけた
理論を捨てられないという拘りだけのために実証精神を失い、事実を無視し、あるいは隠す
場合も決して珍しくはない。科学者とて、「真理」を食って生きているわけではなく、名声や財産
や社会的地位のために生きていたとしても、何の不思議もない。

社会的エリートの腐臭は甚だしいが、知的エリートだけが、その例外と見なすべき特別の理
由が、果たしてあるだろうか?
もち論、こんな議論は、状況証拠によって科学への不信を煽るに過ぎないことは充分に承知
している。いつも云うように、問題は常に具体的に考えなければならない

しかし素朴な反科学主義が台頭し、「自然に帰れ」という願望が広がるには、自然を恣に操
作し、改変しうるとする科学主義の傲慢が根底にあると指摘しておくことは無駄ではない。
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by agsanissi | 2007-07-14 00:45 | 考える&学ぶ


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