2007年 07月 15日

土を考える/植物工場/5


12日、岩手県奥州市の「未来の野菜工場」と囃されたK社(資本金6千万)が突然操業を
停止し、従業員は解雇、社長は行方不明と報じられた。二百万個の赤色発光ダイオードを
使ってサニーレタス月産20万トンを水耕栽培する予定で、05年11月に操業を開始、岩手県
及び奥州市から5千万円の補助金が出された。奥州市の他、和歌山、千葉、北海道にも同
設備の工場があるが、既に昨年中に倒産しているものもあったとか。
太陽光も土も使わない最先端技術を駆使した、文字通り野菜の工場生産だが、一年半で
頓挫した。工場設備も販売計画も杜撰で、月間平均生産は3.5トンと操業率は2割にも達せ
ず、電気代も払えず、送電を止められて操業停止に陥った由。
先端技術を売り物にした単なる詐欺行為なのか、市場開拓力など販売計画の欠陥なのか、
それとも生産技術そのものに内的欠陥があったのか、報道からは分からない。

この機会に、作物栽培が不可避的に持っている矛盾を、自然農法とは正反対の発想で解決し
ようとする「植物工場」について考えてみよう。その要点は、作物栽培に対する土の制限要因
は、土を使わなければ、土から一切解放されるという考え方だ。
土を使わぬ水耕栽培は、以前からあるが、上記工場は更に進化した先端技術=発光ダイオ
ードを利用し、太陽と土から解放され、工場内(地下工場でも良い)で多段棚を利用して、超
過密の集約栽培が可能になる。また温度・湿度・溶液・炭酸ガス濃度など理論的な最適生産
条件を生育ステージに合せて自動制御出来るから直接生産工程は殆ど無人で維持管理でき、
極めて安定した低コスト生産が可能になる(...とでも、出資者は吹き込まれたのかしら?)。

作物の生育過程を分析し、土壌と太陽光から機能的目的だけを抽出し、その制限要因を排除
して作物栽培をすれば最小エネルギーで、最大生産能力を引き出しうるということだ。
太陽光の制限要因とは、天候であり、日射量であり、入射角だ。太陽光の中から光合成に関
わる特定波長の光を抽出し、発光ダイオードによって代替する。また土壌の制限要因とは、
面積、土質、養水分バランス、土壌生物・微生物による病虫害、含有する重金属・鉱毒など
の各種有害物質などで、作物の保持と養水分の供給はロックウールと液肥で代替できる。
1960年に発行され、その後30年以上、土壌学の標準的教科書として使われてきた山根一郎
著「土壌学の基礎と応用」(農文協刊)の第一章は「作物の生育に必要な条件と土壌の二つの
役割」、その第一節表題は「土壌がなくても植物は育つ」となっている。そしてその書き出しは、
農業の生産を高くするのに土はもっとも大切なものだと多くの人々は認識してきたが、実際
の作物は土壌がなくても育てることが出来る

として、水耕栽培のコツに言及する。この栽培を通して作物栽培に必要な条件が明瞭に理解
されたが、その必要条件とは光、空気、水、温度、適量の養分、有害因子のないことの六つ。
光以外の要因は土壌を通して働きかけ、これを土壌の機能と呼ぶと、土壌機能は二つに大別
出来る。即ち
1.養分と水分に関する機能
2.根の健康に関する機能
筆者は、この節の最後を「現場を考える土壌研究者は、土壌の個々の部分の持っている機能
を常に考える習慣を持たなければならない
」と結んでいる。
筆者はそこまで書いてはいないけれど、この二つの機能を合理的に果たしうる代替物によって
置き換えられれば、作物生育に対する土壌の制限要因は取り除かれ、作物栽培は飛躍的に
向上する、と考えるのは当然の論理的帰結だろう。
いかにも60年代初頭、高度経済成長の始まりの時代に相応しい認識だ。

だが、土壌をバラバラに細かく分解し、その個々の部分を如何に詳細に分析しようとも、それ
によって「土壌の機能」の一側面は掴み得るかも知れないが、土壌本体のどの程度の部分を
理解できたのか、比ゆ的に云えば、あの群盲象を評すの象の耳を掴んだのか、尻尾を掴んだ
のか、耳垢の一部を掴んだに過ぎないのか、それとも象そのものを掴んだのか、科学にも全く
理解できない。なぜなら科学は、自分の見ているものだけを見、自分に見えないものは、あた
かもないかのごとく想定しているからだ(象をお釈迦様の掌に喩えれば、科学的認識は確かに
孫悟空以外のなんでもない)。尤も、宗教教義のように完結した体系ではないから、新たな課題
として提起されたテーマ(言い換えれば従来の理論で説明できない現象が見つかれば)の背後
に、まだ見えない事実がある可能性は想定してはいるが。
確かに分析と総合、実証と再現という科学的方法によって、人間は自然を学び、自然を模倣し、
多くの技術的成果を獲得した。いまや自然そのものを人類の「幸福」のために、恣に改造し、
改変しうるかに錯覚するにまで至った。

だが、土壌の機能(機能という捉え方自体がおかしい)は、たとえ作物の生育過程における
役割に限定して考えたにしても、この二つに解消できるのか?
40年後の01年に発行された「土壌学概論」(朝倉書店)は、その序文の冒頭に書いている。
土壌は地球上の全生物の生存に直接・間接に関与している。光合成によって二酸化炭素を
固定し酸素を放出する植物を支え、人類を含めた動物に食糧や住処を提供してくれる。また
動植物が寿命を終えると再び土壌に戻り、土壌生物によって分解される。このように土壌は
地球上の生命や物質循環の要にあり、生命の宿る星、地球に固有の貴重な財産である

即ち土壌の機能的役割といった、著しく矮小化された捉え方に代わって、土壌生物を媒介に
生命や物質循環の要に位置するもの、言い換えれば他の何らかの代替物によっては簡単に
は置き換えられないものとして理解されている。
仮に作物の生育過程を「生命や物質循環」の一部として捉えれば、その要にある土壌を、その
機能的目的に沿って抽出した代替物によって置き換えられるのか、という疑問が湧いてくる。
認識がこのように変わったのは、土壌についての科学的分析が進んだこともあるが、この間に
野菜の「主産地形成」政策に沿って、土壌の機能的目的を絞りつくし、土壌を疲弊させたこと
が、皮肉にも「土壌がなくても植物は育つ」という認識を反省させ、「地球上の生命や物質循環
の要」として再認識させる契機となったことは間違いない。この本の第一章第一節は「地球およ
び人類の歴史と土壌」という表題になっている。

科学的認識が、徐々に、段階的にしか進まないというのは、それで良い。科学は、ただ目に
見えるものを見ているに過ぎないし、それはまた実証主義の当然の帰結である。それにもかか
わらず、あたかも全体を見ているかに錯覚していることが問題だ。
同じことを、福島さんはこう書いている。
人間の知恵は、いつも分別に出発して作られる。従って人知は分解された自然の近視的局
部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないで、不完全な自然の模造品
を造ってみて、自然が分かってきたと錯覚しているに過ぎない

言い換えると、発光ダイオードと水耕栽培で作ったサニーレタスは、畑で作ったサニーレタス
と同じものか?水耕栽培で養分として与えられたものと、土壌中で微生物の働きを媒介に吸収
された養分とはサニーレタスの生体内で同じ役割を果たしているのか?単にサニーレタスもど
きを食べているだけで、果たしてサニーレタスを食べているのか?それは分からない。
科学は見えるものしか見ないし、実証できないものは、見ないからである。

サニーレタスだから良いようなものの(と、言い切れるか?)
例えば、効率的肉牛生産のために同種属の骨肉辺を食わせることを科学的知見は妨げなかっ
た。牛の草食行為の機能的目的は「骨肉辺」によってより効率的に代替され、生体反応には
如何なる反作用も及ぼすことはないと想定した。その可能性を示す証拠が見出せなかったか
ら。この事実が示していることは、自然は、人間が分析のためにバラバラに分断して、その機能
的役割によって理解しえたところの部分品の、単なる寄せ集め以上の何ものかであるという
ことだ。

人間は、
・自然に対して何事も為してはならないのか?生きることは、明らかに自然に働きかけるこ
とだから、それはありえない。
・何事を為しうるのか、何事を為してはならないのか?それは、僕には分からない。
このような問いを発しうるほどに、自然認識が進化したとも云えるが、人間の存立基盤その
ものを覆すかもしれない危険を招き寄せたとも見えないこともない。
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by agsanissi | 2007-07-15 09:14 | 考える&学ぶ


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