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2007年 07月 19日

死屍累々/中国文明の一断面/余談

「黄河文明と長江文明の交錯と攻防は、云々」(7/18参照)と書いたが、あれだけの記述では
抽象的で何のことやら分からぬ人も多かろうから、若干の補足を書いておく。

僕が中学・高校の頃は、まだナイル、チグリス・ユーフラテス、インダス、黄河の大河領域が
世界の四大都市文明の発祥地として教えられた。大規模な治水潅漑事業を計画的に進める
には集権的な権力だったからと説明されたが、政治的権力よりも前に、何よりも先ずある程度
の定着農業と周密な人口の集中及びそれを扶養するに足るだけの肥沃な土地がなければ
ならなかった。

19世紀の後半、中国など東アジアの大規模な地理的調査を行った(明らかに西欧の植民地
政策の一環だが)ドイツの地理学者リヒトホーフェンは肥沃な黄土高原を「何千年かにわたっ
て、黄土でくり返しくり返し被われた草原植物の死骸の畑
」と呼んだそうだ(安田徳太郎「人間
の歴史」第二巻から)。黄砂で知られる微細な砂が草原植物を呑み込み何層にも積み重なっ
てできた有機質肥料の宝庫=天然の堆肥層を形成して、人類が農業文明の入り口に立つの
を待ち受けていた。一方では、現在でもそうだが大規模な河川氾濫が繰り返され、居住にも農
業にも死活の危険をはらんでいた。
河水1立方メートルに年平均34キロ(の黄土)も含まれているが、平原に入って水流の速度
がゆるむと土砂を沈殿し始める。そのため河底は百年に30センチの割合で高くなり、やがて
天井川となって増水するとたちまち氾濫する
」(湯浅赳男「環境と文明」から)。
最初は、洪水の危険の比較的少ない中流域の、湿気の比較的多い河川流域の丘陵地を
利用して、乾燥に強いアワが栽培され、次第にキビやムギ等が栽培されるようになった。
こうして乾燥地帯で、専ら雨水を利用した畑作農耕文化が始まった(概ね4-5千年前)。
やがて鉄製農具が導入され、また畜力を利用した犂牛農法(犂とは牛に引かせるスキのこと
でリギュウと読む)が始まって、開発可能な農耕地が格段に広がった。鉄製農具と畜力を使っ
て深く耕すことによって、初めて黄土高原の肥沃な大地を農地として広く利用できるようになっ
たのである(概ね2-3千年前)。
どういうことか?黄砂で覆われ、雨水が少なく、そのままでは毛管現象によって地下水はどん
どん蒸発してしまい、農耕地は比較的土壌水分の多い河川流域のみ限られていた。それが
耕起・圧土・作条・播種・覆土という一連の保沢作業を行うことで、いわゆる乾地農法が可能に
なった。即ち
秋の収穫後に秋耕を行う。これは夏の降雨によって土中に残っている水分の蒸発を抑える
ためである。刈取りが終わると蒸発が激しくなり、土中の水分は毛管現象で地表に上ってく
るが、耕起してこれを切断し、更にローラーをかけて圧土し、水分の蒸発を防ぐ。辛うじて残っ
ている水分に期待して春播し、覆土・鎮圧して、あとは夏の降雨をひたすら待つのである

(湯浅、同前から、一部書き換えたが文意は変えてない)。肥沃な大地に恵まれながら、雨の
多い温暖湿潤地帯の我々には想像の及ばない努力が不可欠なのである。

ごく最近になって湿潤地帯の長江流域に、黄河文明より早く、独立に、独自の稲作文化=長
江文明が展開されていたことが発見された。いわゆる四大文明がいずれも乾燥地帯の畑作・
牧畜文化であり、小麦・肉・ミルクをベースにしていたのに対して、長江文明はコメ・豆をベース
にした文化として注目された(概ね7-8千年前、参考、なおWikipediaの長江文明も参照)。
やがてこの文明は、気候変動に変動に伴う黄河流域の畑作牧畜民の南下に呑み込まれ消滅
する。しかし稲作文化そのものは消滅することなく、文化的にはむしろ優位に立つ。北と南の
人口比率は、1世紀頃は9対1、8世紀頃は6.5対3.5、11世紀頃は3.5対6.5となる
(湯浅、同前から)。
「黄河文明と長江文明の交錯と攻防は、数百万から数千万人というレベルの人間の死をかけ
た自然の人口扶養力とそれを超える人口扶養力を求める攻防の歴史」と書いたが、この人口
移動は決して平穏に進んだわけではない。
中国の人口推計を見ると、西暦2年には6千万、西暦23年までに半減、その後戦乱が続き
西暦37年には千数百万と十二分の一しか「生き残っていなかった」(岡田英弘「皇帝たちの
中国」)。戦乱に伴う飢餓・疫病・逃亡などが重なったもので、決して全部が死んだわけではある
まい。その後も人口の激変は続き二世紀半頃に5600万に達し、後半には400万に激減。その
後西暦2年の人口を回復するのは11世紀のこと。
このような歴史は、通常は専ら王朝の興亡史、政治的争乱・戦乱の歴史として描かれるが、
その背後には必ずより豊かな土地への流入、やがて人口過密と貧困に伴う流出、治安の悪化
や盗賊の横行による争乱、新たな人口移動等々生きるために食を求めてさ迷い歩いた人々の
大規模な移動があったはずであり、むしろこのような移動こそ王朝の興亡の真の誘因となっ
のではないか、と僕は考えている(尤も、そういう立場で書かれた歴史は見たことがないな)。

「中国救荒史」によると、最近2千年間に約5300件の災害が記録され、旱害と水害が四割を
占めている。その内、記録の残っている19世紀の死亡者数は
1810年、900万人
1811年、2000万人
1846年、28万人
1849年、1500万人
1858年、500万人
1876-8年、1000万人
1888年、350万人(以上は湯浅、同前から)。
さらに最近では1959-61年の人民公社の失敗による2000万人の餓死、文化大革命期の
死者など。

このような酷薄きわまりない人口変動の歴史を、日本の穏やかで・なだらかな人口推移(人口の
超長期推移、参照)と比較してしてみると、その死生観や世界観にどのような違いを生み出すか、
想像を超えるものがあるのではないだろうか?

なお黄河文明と長江文明、あるいは畑作文化と稲作文化を環境との調和という視点から考える
比較文明という面白いテーマがあるが、これはまた別項で。
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by agsanissi | 2007-07-19 00:39 | 考える&学ぶ


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