2007年 08月 01日

土を考える/一物全体食/14

「一物全体食」という考え方がある。
食養道を説いた幕末の医者石塚左玄は「健康を保つには生命あるものの全体を食べることだ。
野菜は皮を剥いたり、湯がいたりせず、魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べ
よ。食物に陰陽の別はあっても、生きているものは、すべてそれなりに陰陽の調和が保たれ
ているのだから、その部分だけを食べたのでは健康長寿は保てない
」と、口癖のように説いた
そうだ(沼田勇「幕末名医の食養学」)。
石塚左玄の食養学をいろいろ紹介して最後に、沼田勇さんは
大切なのは、自分がいま健康であるか、病気或いは病弱であるかを自分の体に問い、それ
をもとに自分にあった食生活を選び、実行することです。自然食を主体としている健康人な
らば、多少はいかもの、邪食を口にしても、たいした影響はありません。重労働をやる人も、
それは同じです。しかし加工食品にかたより、自然の法則から大きく外れた食生活を続けて
いる人が早晩、健康を維持できなくなることは明らかです

現代栄養学が分析的、科学的であるとすれば、石塚左玄の食養道は総合的、哲学的です。
左玄はヨーロッパ文明を批判し、生命の問題を生物学的に、民族的に、風土的にと広い視野
に立って思索しました
」と書いている。
福岡さんも石塚左玄の思想を受け継いで「自然食」を説いている。「わら一本の革命」の
第五章「病める現代人の食」の中で、蛋白は蛋白、でん粉はでん粉であって、何から取ろうと
同じではないかという考え方は間違っているとして、次のように書いている。
それは重大な思考と責任のすり替えで、肉や魚も同様な運命をたどり、肉が肉でなくなり、
魚が魚でなくなる始めとなり、石油蛋白が上手に味付けされたりして、一切が科学的人口
食品に変わっても気付かない
平気な人間に転落することになる

部分的な材料を、どんなに豊富に取り揃えても完全食に近づくものではない。人智にもとづく
部分的なこま切れを寄せ集めれば寄せ集めるだけ、自然から遠ざかった不完全食が生まれ
るだけである。一物の中に万物があるが、万物を集積しても一物は生まれない

これは、すでに第5回目の「植物工場」及び番外編の「イミテーション文化」で取り上げた問題
と基本的に同じテーマである。

第12回で「人間の自然界でのすべての営みは、自然界の物質循環の一部である」と書いた。
自然界での人間のすべての営みを、最も簡略に、身も蓋もないいい方をすれば、食べること
と排泄すること
である。食べることで、自然界から身体を構成する諸物質を取り入れ、排泄
することで余分に取り入れた物質を土に返している。更に生涯を全うすれば、燃やして全部
土に返してやる。植物、動物、微生物など、生涯期間の長さや生体を構成する諸物質の組成
や割合には多少の違いがあるが、基本的には全部同じことだ。むしろ人間と植物が(人間と
微生物でも良いが)、まるで違ったものに見えながら、身体を構成する必須元素という視点
から見れば、殆ど変わらないことこそ驚きだろうか(「身体組成の研究史」参照)。

我々は、食べることで「生きている」わけだから、身体を構成する物質の9割以上を占める
酸素、炭素、水素(これは呼吸と水から取る)を除けば、生きるのに必要なすべての物質を
「食べる」ことで自然界から取り入れている。「自然食」という考え方は、まさにこの点から
発している。難しいことでもなんでもない。「一物の中に万物がある」からこそ、一物をまるごと
戴けば、多少の過不足はあっても、生きるに必要なすべての物質を取り入れることが出来る
という考え方だ。簡単に云えば、米(小麦)と魚と大豆(野菜)を、まるごと全部戴けば、それで
充分かつ健康に生きられるということだ(しかし豚を、まるごと全部食べるのは、牧畜民では
ない我々には、中々困難だ)。自然食品店で売っている食材が「自然食」ではないから、誤解
なきよう!

現代栄養学は、ある意味では、まるで正反対の側に立っている。
農水省は「食事バランスガイド」を公表している。その目的を次のように書いている。
生活習慣病予防を中心とした健康づくりという観点からは、野菜の摂取不足、食塩・脂肪
のとり過ぎ等の食生活上の問題、男性を中心とした肥満者の急速な増加などに対し、「食生
活指針」を普及することにより、より多くの人々に栄養・食生活についての関心や必要な知
識を身につけてもらい、食生活上の課題解決や肥満の改善に結びつけてもらうことが必要に
なってきました。
」(参照
17年7月に公表された「第七回フードガイド検討会」の報告書(参照)を仔細に見ていくと
(そんな暇人は滅多にいないか?!)、現代社会で健康に生きていくことが至難の業のように
思われてくる。年齢・性別、基準体位別、身体活動レベル別の日本人の一日の食事摂取基準
量と食品構成を眺めていると、それだけで頭が混乱して、食べるのが億劫になりそうだ。
ひと言で云えば気違い沙汰!!
こうなるには、基本的には二つの理由があるような気がする。分析科学の進歩と云っても良い
し、栄養学と健康との関係についての科学的知見の深化と云っても良い。但し、科学的知見が
どんなに進歩しても、現代人は一向に健康になっているようには見えないのが最大の難点だ

寿命が延びたではないかと云うかもしれないが、それは乳幼児の死亡率の減少とたとえ病気
であれ、中々死ねないという現実が、大きく貢献している。栄養学であれ、医学であれ、
当該科学の進歩によって現代人の健康は益々増進しているとは、とても自信を以て公言できる
状態ではないだろう。
二つ目は、我々の食事が「一物全体食」から、正反対の方向に向かっていることだ。
イミテーション食材は云うに及ばず、加工食品の氾濫、外食産業への依存、輸入食材の氾濫、
これらすべての事情が「一物全体食」を、益々困難にする方向に向かってひた走っている。
挙句の果ては「食べること」を抜いたり、ダイエットのために食べるかに錯覚したり、逆に「食べ
ること」自体が厭わしいという摂食障害のような倒錯現象まで引き起こすに至っている。
例えば大豆を食べる。煮豆で食べる、納豆で食べる、豆腐で食べる、豆乳で飲む、味噌醤油
で取る、大豆加工食品・スナック菓子で食べる等、いろいろな方法がある。全体食という点から
みれば煮豆、納豆、味噌が良いか。豆腐や豆乳では半分以上の栄養分を排斥してしまう。
加工食品やスナック菓子では、何がどうなっているかも分からない。煮豆、納豆、味噌でも
自分で作れば、いざしらず出来合いの加工品を買ったのでは、スナック菓子と五十歩百歩。
もっと簡単な塩はどうか?粗塩には、数十種類のミネラル分が入っているが、精製塩は塩化
ナトリウム(+何種類かの添加物)だけ。
例えば「魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べよ」という食べ方が出来るのは
取立で新鮮でなければならない。鰯を丸ごと天ぷらにして食べるほど美味しい食べ方はない。
烏賊のはらわたを炒めて、そこに烏賊を丸ごと入れて焼いて食べるほど絶品の食べ方はない。
そんな食べ方は、冷凍輸入物では不可能。こういう贅沢な食べ方が出来るのは海辺の百姓か
漁師くらいなもの。しかしそんな職業は、ますます敬遠される一方。
事ほど左様に、我々の食品・食材や生活様式は「一物全体食」から遠ざかっている。この両者
が相俟って、科学的知見は深まっているのに、却って我々の健康は脅かされるという一見、
矛盾した状態が生まれる。
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by agsanissi | 2007-08-01 01:50 | 考える&学ぶ


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