2007年 10月 31日

「管理社会」

惑星群が、段々高緯度に揚がって来た。これからは、ひょっとすると海岸に行けば水星を
見られるかもしれない。そうすれば東の地平線から南の天頂にかけての円弧上に水星、
金星、土星、火星とならんで見られる。

自分では「管理」の息苦しさを直接感ずる立場にはないし、学生時代から、もう半世紀以上
そういう世の中とは半ば縁切り状態で、「管理社会」を身を以て痛切に感じたことはないから、
それを正面きって批判するほど世間を知らぬ。それでも間接情報から垣間見ることは出来る
し、一を聞いて、三なり、五なり、十なり窺い知ることは出来る。

そんな面白い記事の一つが、NBonlineの10/26に載っている。殆ど全部引用、僕の操作
と云えば、下線引きだけ。昨日の記事「賞味期限なんかクソ喰らえ!」とも関係するし、官が
民の首を絞めているだけではなく、自分で自分の首を絞めるような、それでいて自分では
ちっとも気付いていないという独特の社会のあり様を窺わせる面白い記事だ。表題は「屁尾
下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる
、糸井重里さんと編集部の対談、というか一問一答
参照、記事を読むには要登録)。

ネットといっしょに、超管理社会がやってきた

糸井 去年みたいに、手帳をこうして、みたいなことを具体的に言いづらいんです。

―― え、なぜですか?
糸井 回りくどくなるけど、いいですか? 昔々『日本国憲法』という本を作った、島本修二さん
という編集者が小学館にいて、当時、彼から聞いた笑い話があります。
島本さんは、会社に、自転車で通勤していた。ところがそれを見てた人がいたんですね。で、
この人があるとき廊下でまじめな顔で話しかけてきた。
「あの、自転車通勤は許可されているんでしょうか?」
このときは二人で大笑いしたんだけど……。
でも今、ぼくが、もしその話を島本さんにされたら、やっぱりその人みたいに「自転車通勤って、
小学館的にはどうなの」って聞き返すと思うんですよね。

―― 当時笑えたのは「いやしくも『公』たる会社が、通勤手段ごとき『私』のことなんか、
かまう必要はないじゃないか」と、みんななんとなく思っていたから、ですよね。
糸井 そう。それが今だと、自転車で通勤しているやつが事故を起こした場合、労災がおりるか
どうか、とか。「自転車の置き場が会社にないから、自転車通勤の野放しは放置自転車を会社
が許したということになりますよね」とか。
そんなつまらないことを、俺らがつい考えついちゃう。それ自体が……。

―― すでに管理社会。全身どっぷり。
糸井 そのとおりです。島本さんとぼくが矢沢永吉の『成りあがり』とかを作っていた70年代
80年代は、まだ「自転車通勤は会社的にはいかがなものか」とわざわざ言ってくる人の存在
自体が、笑い話だったのに。今やそういう人はあっちにもこっちにもいて、人さし指で、いちいち
指さし点呼して「管理」してる、お互いに


―― そういえばマンションの耐震偽装の問題が起きてから、「あまるいに規制が厳しく
なって、新しいビルが建てられない」って、建築士さんが困っているという話があります。
糸井 じゃあ、規制が厳しくなって、結局誰の仕事が増えているか。というと「これは大丈夫
です」「これはダメです」「これは耐震構造的に法的にオーケーです」「オッケーじゃありません」
といったことを調査して報告するひとたちですよね。それって結局、官僚の仕事であり、弁護士
の仕事じゃないですか。

―― まさに管理する人の仕事だけが増えたんですね。
糸井 そこで問題なのは、「仕事は増えているけれど、何も生んでいないし、消費されていない」
ということなんですよ。

―― ええっ? どういうことですか?
糸井 つまり、見回りみたいな「管理」の仕事を増やしても、何も生み出さないし、誰も消費を
しないじゃないですか。ただ、たしかにこうした官僚的な仕事、官僚的なコストを増やしていくと、
ノーアイデアでいろいろ回るんです。

―― 最近、弁護士の数を増やそう、法化社会にしよう、という話をよく聞きますが、「そう
なると訴訟だなんだで、ものすごく社会的コストがかかっちゃう社会」になっちゃうかなあ、
という気がしてたんですが、すでにそうなりつつあるんですね。
糸井 見回ったり、管理したり、何が正しくて何が間違っているのかって仕事は、役人と天下り
の元お役人たちとで回していたわけですよ。現役の官僚としてルールを決めたり摘発する側に
いた人が、今度は民間に場所を変えて、それが順法かどうかを調べる人になる。こうした仕事の
やりとりが、減るどころか、もはやあらゆる業界に存在している。
この仕事のやりとりの何がすごいって、そこから何も生まれてないのがすごいんですよ。
まず、「ルール」っていう、わけの分からない魔物がいて、その魔物のスケッチを描けると仕事
になる。「魔物と遊ぼう」でもなければ、「魔物から逃げよう」でもなければ、「魔物をとっつかまえ
よう」でもなければ、「新しい魔物をつくろう」でもない


―― 法律だのコーポレートガバナンスだのといった「ルール」という魔物の番をする仕事
だけが増えてるわけですね……。
糸井 で、インターネットの世界でも……。

―― そうか、この手の「管理」したがる人が勝手にどんどん増えている! インターネットが
「自由」どころか「管理」の象徴に……。糸井さんがなんだか憂鬱な理由がわかってきました。
糸井 (笑)

―― それで思い出しました。あるアニメに関する記事を書いたら、「この記事は『某アニメ制作会社』の許可を取った上で書いているんですか」とメールしてくる読者の方がいました。このひとはどうやら、記事の中に作品名が載るだけで著作権利者に許可を求めなければならない、と思い込んでるわけです。
糸井 その手のメールは「ほぼ日刊イトイ新聞」でも絶えずありますよ。たとえば、ぼくが「田んぼの真ん中の渋柿を取った」と書いたら、「それは、泥棒です」とお叱りがあったり(笑)。
 「あなたほど影響力のある人が、泥棒を肯定するようなことを公然と書いているのは、いったい
どういうことなんですか!」というわけです。でも、たしかにそういっちゃえば、正しいんですよ、
その指摘は。なんといってもぼくはその渋柿を干して甘く食べられるように変換して、実際に食べ
ちゃいましたから(笑)。

―― おお、渋柿から干し柿に変換したんですね。
糸井 渋柿は干せば干し柿として市場に流通できるから、渋柿を取る行為は泥棒だよね、と。
日本中の渋柿が次々と勝手にもがれるような事態が起きたら、ぼくのせいだ、とまあそういう話
になります。

―― へえ。
糸井 で、この読者の方からの見解、正か邪かでいえば、正しいんですよ。

―― 養老孟司先生のWeb連載で、標本を作る大変さに「ラオスで虫を捕り過ぎた!」という
文章があったんですが、これには「捕り過ぎとは何ごとだ、それは殺戮である」というご指摘が
来ましたね。これも、正か邪か、といえば、おそらく正しいご指摘ですねえ。
糸井 そのとおり。

―― このときは、「いやそういう意味じゃなくって」と説明しようかと思ったんですが、こっちの
気持ちが折れちゃいまして、結局ご指摘には答えないままでした……。
糸井 そうやって作り出す側が疲れちゃうと、「どう守るか」ということになりますよね。ちょっと
危なっかしくても、新しくって思い切りのいい発言をするよりは、「何がセーフか」を意識しちゃう。
「作る」ことよりも、「どこまでがセーフなのかを調べる」ことにばかりコストを掛けるようになる。
 こうした仕事の循環が「今」のありようだと思うんですよね
。そうした空気は、この連載が載って
いる日経ビジネスオンラインのコンテンツにも、何気なく表れていると思うんですよ。

―― ありますか。
糸井 ある会社の話をするとしましょう。その会社、ある程度の可能性はあるけれど、将来確実
に伸びるかどうかはわからない。そんな会社が「今」うまくいっている話を載せる場合、必ず
「でも、ここには問題がありそうですね」という情報を付け加えておく。こうした記事の着地点って、
常にそこにありますよね。

―― う(汗)。
糸井 マスコミの論理展開は、みんなそこに行きますよね

―― ……たしかに万が一、その会社がコケた場合の保険として書かざるを得ないです。
糸井 会社の先行きなんて、ほんとは誰もわからないなら、原稿の分量配分としては、成否
五分五分にしておかないと、あとで何かあったとき、突っ込まれるかもしれない。

―― うえーっ、そうか、公平に書こうとしてそんな記事の書き方を無意識にしていましたが、
あれはあとから後ろ指を指されないための保険だったのか。
糸井 本当に「うえーっ」ですよね(笑)

―― 嫌な時代ですねえ。
糸井 ええ。でも、これはこの先、ずっとひどくなると思いますよ。明らかにひどくなる。
 そういうビジネスがらみの話でいうと、たとえば最後の悪が「ホリエモン」であり「村上ファンド」だった、ということになったわけじゃないですか。たしかにどちらも悪いところはあった。それで、みんなが「ああいった悪いやつ」が大またで偉そうに歩くような時代はごめんだね、ということを思った。さらにいうと、二度とあの手の「悪」が現れないようにしたい、と思った。すると今度は、
ちょっとでも「悪」の気配があったら、そいつはつぶす!となっていくわけです。

―― 監視国家に向かって一直線な感じですね。
糸井 もはや、性欲みたいな個人の持ち物ですら、法律で縛られていくような気がする。その
うち「こんなことを考えてしまったんですけど」って仮に人前で言ったら、言った途端から捕まる
時代になるんです。

「屁尾下郎」が跋扈する
―― これってなんとなくみんながそうなってるって話で気持ち悪いですね。一般の人々が
そうやって「官僚化」する瞬間は、どんなときなんでしょう

糸井 それは、リスク回避をしたいときですよ。リスクを回避する、というのは、必ず「正義の側」につく、ってことなんです。
 前に何気なく書いた話なんですが、人ごみの中でおならをした人が、「誰か屁をしたな!」って、でかい声を出す。それをやられちゃうと、「ぼくはしてないですよ」、あるいは「お前じゃないか?」という発言しか、周りは言えなくなっちゃう
昔、NHKのドキュメンタリーで、文革のときの中国の紅衛兵のときの話を取り上げていました。これがもう笑っちゃうぐらいみんな、この「誰が屁をしたな!」の論理で動く。それぞれが「あいつは悪い」って告げ口しあうことで、自分だけが生き延びようとしたんです。

―― とにかく先に「あいつが悪い」と言ったやつのほうが生き延びる。
糸井 そうなんです、「俺は悪くない」と言うとその時点ですでに犯人扱いになっちゃう。ましてや、「え、あいつって本当に悪いのかい?」なんて言ったら、もうその人はおしまいなんです。
そういうやりとりを横で見ている連中は、「結局、一番うまくやったのは誰だろう」って勉強をし
ちゃう。だからみんな、自分のリスクを避けるために「屁をしたろう」「屁をしたろう」と、みんなで
指を差し合っているわけ。そこでうっかり「したよっ」て言ったら一発でお縄ですよね。
でも、本当は今の世の中、大声で言ってみたい感じ。「俺は屁をするぞー!」って

(後略)

何が面白いといって、僕は屁の話が一番面白い。守屋氏が、倫理規定監視委員会の委員長
だったなんて話は、そのまま人ごみの中の屁じゃないか!!
今や、追及する側に立った人らはどうなんだ、というのが太田氏の指摘だ。
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by agsanissi | 2007-10-31 06:15 | 参考記事


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