2008年 01月 19日

食料自給を考える/「自給率」という幻想/8

食料自給という概念を、「Aが消費する食料はAが生産する」と、最も素朴に解釈する。
この場合、「A」に何を入れるのが適当だろうか?

現代では、一般的には「国民国家」を入れる。しかし多国籍企業のように部分的に国家の政治的支配の及ばない経済的領域が広がると共に、国民国家を主体にした食料自給率の概念は、事実上、空洞化する可能性があることをイカードのレポートは示唆している。
言い換えれば、「国家の後退」と共に、国民国家の枠組みを分母とする自給率は必ずしも国民的な食料確保の政治的保障にはならないというわけだ。
一方、国民国家の枠組みを取払ってしまえば、食料自給率の割合がどうであれ、食料確保の不安が忽ち襲ってくる。無政府状態に陥った場合は勿論のこと、投機的取引や流通途絶で部分的・一時的な食料の遮断が起きただけでも、不安が不安を呼び、パニックに陥る可能性はなきにしも非ず。「納豆を食べればやせられる」という阿呆なテレビ放送をきっかけに、僅か数日
とはいえスーパーの店頭から納豆が消えてしまったことを思い起こせば、ある種の社会的条件
の下では食料買付パニックの起こりうる可能性は、単なる杞憂とも云えない。問題は絶対的不足ではないし、「日本がすべての国と全面戦争に突入」して「食料の輸入がゼロになる」という
非現実的想定でもない(11/29、池田信夫氏の想定を参照)。
投機的市場では、突然、架空需要が何倍・何十倍にも膨れ上がり、どれだけが実需でどの部分が架空かの区別もつかず、実際の商品は市場から消えてしまい、価格が跳ね上がり、調達に右往左往する事態は珍しくもなんともない。しかもそれが「投機的」市場かどうか、本当のところは過ぎてみなければ分からない。生産財であれ、非生産財であれ、必需品であれ、非必需品であれ、金融商品は勿論、石油・土地・穀物・トイレットペーパー、何であれ投機的取引の対象になりうる。
飽食・自給率の低さ・市場不安などの諸条件は、これにある種の社会的条件が重なれば、投機的取引の格好の餌食になりやすい。
我々は「国民国家」という枠組みを、あたかも自然の賜物のように錯覚しているけれど、ユーゴ、アフガン、イラクのように、突然、暴力的に破壊されてしまう場合もあれば、東欧諸国のように内部的に崩壊してしまう場合もあれば、国家的枠組みは健全でも、マレーシア、台湾、韓国、アルゼンチンのように国民総生産を上回るような投機的資金の餌食にされたり、日本のように投機的サイクルの自己崩壊で国民総生産の何分の一かを一挙に喪失してしまう(戦争を上回る
国富の喪失だ)場合もある。年金基金のような、一見盤石のように見えたものさえ、突然、その内実が如何に危ういものか思い知らされたりする。「ねじれ国会」のような国会機能の部分的
喪失は、時に片肺飛行のような危うさを伴っている。

歴史的には、A=「国民国家」は自明の理ではない。
とはいえ、「A」に個人なり家族なりを入れるのが適当ではないとは、すぐに分かる。
仮に、家族を人間の社会的存在の最小単位と考えれば、A=家族とするのは、必ずしも不可能ではないが、原始社会を想定したにしても合理的とは云えない。一家族だけで継続的に安定して、家族が必要とする年間(或いは一世代間)の食料の総量を生産できるとは限らないから、
家族間での交換と分配は避けられないし、従って一共同体なり共同体間の交換と分配も不可避である。同時に、食料の生産技術が発展するにつれて、一家族や一共同体では消費しきれない余剰食料が生産されるようになれば、この面からも蓄積や交換は不可避となる。
男女間であれ、家族間であれ、世代間であれ、親族間であれ、地域間であれ、分配と交換が始まるとともに、交換の空間的な広がりに並行して、「A」に入れるべき合理的な概念は拡張される。要するに、歴史的発展と共に「A」の合理的概念は拡張される。
食料生産は人間存在の基礎であるから、政治的支配は食料生産手段、すなわち土地及び労働力の所有または占有を前提とする。食料生産にとっては政治的支配は必ずしも前提ではないが、政治的支配にとっては食料生産手段の獲得(その方法の如何を問わず)は絶対的な前提である。支配領域の領民を養えない政治的支配は崩壊する(*)。逆に、政治的支配領域の拡張は、概ね食料生産手段としての土地及び労働力の領有と並行している。
(*)「一般的には」というべきか。ソ連、中国、朝鮮のように何百・千万の民を
飢餓に曝して生き延びた国家もあるし、ドイツやカンボジアのように何百万の
民を意図的に抹殺した国家もある。

食料生産力が発展して、食料生産に携わらないという意味での「遊休民」が増加すると共に、
政治的支配領域の拡張は自己目的化する。
全般的な社会的生産力が発展して、交易が一般化すると共に、食料生産には携わらず、また政治的な領域支配の拡張も求めず、専ら交易によって生活し、交易によって食料を調達する民も現れた(カルタゴなど、現代の日本もやや近いか?)。彼らにとっては、交易という生き方そのものが食料調達を保障している。従って交易の安全を確保する軍事力と植民地都市の建設が不可欠であった(この点では、現代日本はやや不備か)。
交易は、政治的支配領域を超えて絶えず広がろうとする志向を持っている。政治的支配が、
交易を自らの領域内に包摂しようとする一方、交易がそれを超克しようとする争いは、その発生以来現在に至るまで連綿と続いている。現代の争いは国家の後退、市場の復権、新自由主義、グローバリズムなどの概念で表現されている。
「国民国家」が、歴史上に登場したのは、せいぜい16世紀以降、更に政治的支配領域が今日の「国家」と概ね一致するのは、たかだか60年余のことであり、それ以前は、19世紀後半以降、列強諸国の植民地支配は一般的であった。アメリカは植民地獲得競争には、直接には参加しなかったけれど、入植者から見た未開拓地に侵食して、相対的に不足する労働力をアフリカ諸国から奴隷労働として調達した。また政治的支配領域を必ずしも国外に求めなかったけれど、経済的支配領域の拡張には昔も今も積極的である。
植民地支配が一般的な時代は、植民地本国は帝国全体を「A」と認識した。イギリスのような富者の帝国は、食料生産地という認識は相対的に薄く、日本のような貧者の帝国は満州殖民のように食料供給地の拡張意識が強かった。軍部は食料自給を必死の命題に掲げ満州、朝鮮、台湾領有を、文字通りの意味でも・軍事的な意味でも「国土生命線」と捉えていた。他方、被植民
地国にとっては、自らの「祖国」を持たず、A=国民国家とする食料自給率など何の意味も持た
なかった。

というわけで、政治的・経済的支配領域の歴史的拡張とともに、「A」の自然の認識領域は絶えず拡張され(*)、A=国民国家とされるに至って、いまや最終段階に達したのかもしれない。
と同時に、多国籍企業の登場で(或いはグローバリズムによって)国民国家は形骸化する憂き目に曝されている。
グローバリズムに身を委ねれば、「食料自給率」などは、形骸化した分母に囚われた非合理的妄念に過ぎないと見えるし、グローバリズムの負の側面に注目すれば、形骸化した「国民国家」に代わる新たな分母の発見に努めざるをえない。
(*)一方、消費対象が「食料」だという特殊性によって、食文化(または食習慣)・
保存性・鮮度などによって、「A」に入る合理的範囲は制限される。しかし保存
技術や冷凍技術の開発は、この「制限」を拡張する。食文化もまた、グローバ
リズムによって相対化される(「マクドナルド化する社会」)。

[PR]

by agsanissi | 2008-01-19 09:29 | 考える&学ぶ


<< 「農産物の急騰は日本を変える」?      食料自給を考える/農業の工業化... >>