農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

sanissi.exblog.jp
ブログトップ
2008年 02月 18日

遠方より.../道中楽あり

舞台の袖で、小声で話していたものを、突然、表舞台に引っ張り出して素っ裸にしてしまう
のも、どうかと思わないでもないが、「思考方法」/物ごとを考えていく上での方法論、或い
はアプローチの仕方という点で興味深い点があるので、コメント欄からそのまま採録して
おく。
僕は、明日、12時間ほどドライブして岩手に戻る予定なので、ゆっくり車中で思案して
みようかと思う。今晩、20時頃までに再反論をしてもらえると、道中、楽しみが増えますな!

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-16 14:43 x
市中巷間を移動販売しているヤキイモ屋が《日本のヤキイモ生産販売業》を考えて
商売はしていないと思う。街中の床屋が《日本の理髪業》を考えて商売はしていない
だろうし、髭面のおっさんがパンク修理してる自転車屋が《日本の自転車修理販売業》
なんて考えてはいないだろう。同様にして農家と称する大半は自分の築き上げてきた
成業の位置づけに《日本の農業》を代表しようなどとは考えないと思う。

〔農業〕という括りは〔工業〕という括りと同様、便宜上の区分に過ぎない。内訳を限りなく
展開するとして、末端に到ってりんご専門、アルストロメリア専門り、スイカだの牛乳
だの蔬菜だの稲だのと、細かい業態がある。で、各々の農家が、自分の分野外の業態
をも包含する《日本の農業》を日々考えているだろうか?北海道の酪農家が沖縄の
熱帯フルーツ農家を眼目に置いて《日本の農業》を考えるだろうか?

「日本の農業の本質的問題」を問うとするならば、すべての農家に共通共有できる問題
は何かを、レリーフのような浮き彫りにして論考を進めるべきだろう。《日本の~~~》と
いう、あたかも同じ土俵に立っているかに錯覚して、便利な言葉に潜む落とし穴に嵌まる
まい。


Commented by agsanissi at 2008-02-17 02:35 x
日本の百姓は、日本の自然風土、歴史、社会システム、法制、慣習などなどの共通の
「土俵」の上に立っているという前提で考えているつもりですが、これに何か問題がある
とでも?
それとも、百姓の自己認識が「日本の農業」のあり方を規定するとでも云いたい訳ですか??


Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-18 01:57 x
厄介だなこりゃぁ。自問自戒のつもりが薮蛇に(笑い)。

語彙のイメージが異なっている節があるやも。「土俵」ではなく、「舞台」と言い換えた方が
よいか。いずれであっても、農家は国内に存する限り、社会システムや国の法制で等しく
網を受ける。が、各地域の多様な自然風土や歴史、慣習に『共通の「土俵」』はあるのか
ないのか…。もっとも、暮らしの文化の広がりにはドミノ式伝播があるから、発端とか起源
を辿りながら時系列で現時点での基層を考察はできる。

また繰り返してくどいが、"日本の"と、冠を前置して「日本のヤキイモ屋」の『共通の「土俵」』
というものを考えるとして、どんな意味があるかである。全国で商売している個々のヤキ
イモ屋は、条件はみな違うなかで、自分のやり方で商売している。「ここでやっている我が
ヤキイモ屋」のあり方は考えるだろうが、"「日本のヤキイモ屋」のあり方"など考えては
いまい。…ここで"ヤキイモ屋"を"農業者"に置換しても同様と私は見ているわけだが(例外
はあるかも知れぬが)。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-18 01:58 x
各々農業者の周囲の環境は皆異なっている。唯一無二だ。『共通の「土俵」「舞台」』を想像
しても良いが、逐一本人に総当りして確かめない限りは仮想に過ぎぬ。仮想を根拠にした
思考の展開は自家撞着か、単なる空想に到る。ようするに、"日本の"と、括るもしくは束ねる
ことで(統計などの調査データ)、何かしら抽出できると考えるのは幻想のような気がすると
言いたいだけだ。

『たまたま日本という国で、農のある暮らしをし、日々生活を耕している』が主で、従たるもの
に『主を脅かすものあらば迎え撃つ』気概に満ちた農家はあるのかね…。そもそも「日本の
農業」とは何ぞや?「日本の農業」を何かで規定できるのか?否、規定しなければならない
ものなのか?仮に規定できたとして「日本の農業」のあり方を代表できる農家、または農家
集団は存在しうるのか?それに該当するものを選出できるのか?スポーツ界のように「日本
の農業者選手権大会」を開催できる性質でもあるまいが。


Commented by agsanissi at 2008-02-18 04:52 x
コメント欄で応えるには、ちと厄介な面もある。取敢えず要点だけ、...。
いろいろな問題を、混同しておられる。
1.個と普遍性。具体的な生命は、如何なるものであれ唯一無二です。では、生命とは何か
という分析は無意味か?個々の全ての生命を総当りした結果として、帰納的にのみ生命を
論ずること、方法論としてそれ以外の方法はすべて誤りか?
2.仮説を立てて、それを実証していく方法は考え方として、あるいは学問の方法として、
自己撞着乃至単なる空想に到る方法なのか?非常に狭く限定して、例えば数学の仮定法
という証明法は、全て空想の産物か?
3.なぜ、日本の農業問題を論ずる論者は農業者以上に沢山居そうなのに、「日本の焼き
芋屋」問題を論ずる焼き芋屋学者は居ないのか?
イ.日本の歴史・社会システムの中で培われてきた焼き芋屋という存在がないから。
ロ.外国の焼き芋屋によって、その存在自体が脅かされている「日本の」焼き芋屋という存在
がないから。
ハ.焼き芋屋という社会的職業を規制する法制や省庁は、仮にあったとしても、農業者とい
うあり方を規制するシステムに比較すれば、問題にするに足りないほど小さいから。
4.学問の方法という点から考えると、
民俗学の対象は、一般論から入っても実りは少ない。何故なら、最初から「個の特殊なあり
方」を問題にしているから。他方、外国との競争に曝され存在自体が脅かされている「日本の
農業」を考えようとする場合に、必ず個々の農業者の「特殊なあり方」から思考を開始しなけれ
ば、自己撞着・空想的な議論に陥らざるを得ないのか?


★「信州地湧仙人」には、最初から不利がありますね。舞台の袖でしか発言できないのに、
僕は、舞台の上から、大声を出せるのだから(尤も、文字数では負けてますな)。でも、僕
には勝ち負けという意識は皆無ですから、「不利」などと、くれぐれも小人の遅疑をなさらぬ
よう。ただ興味深い問題提起とのみ受け取っております。
[PR]

by agsanissi | 2008-02-18 05:15 | 考える&学ぶ


<< アジアに広がる食料品価格の高騰/1      曖昧さの「安心と不安」 >>