2008年 02月 20日
認識論や科学的方法についての、僕の考え方は、主に「土を考える」で、折に触れて 書いてきた。ここでは、それを再び問題にしようとは思わない。一点にのみ絞る。 で、日本の農政は、本当に「効率最優先」だったのか??? 本当に、それが日本の農業の本質的問題だったのか?? と書いた点に関して、次のようなコメントを頂いた。 ・「日本の農業の本質的問題」を問うとするならば、すべての農家に共通共有できる問題 は何かを、レリーフのような浮き彫りにして論考を進めるべきだろう。《日本の~~~》と いう、あたかも同じ土俵に立っているかに錯覚して、便利な言葉に潜む落とし穴に嵌まる まい。 ◆言葉、一般的に概念には、常にこのような危険と思考の落とし穴がある。例えば、 国家、生命という言葉を使うことで、あたかも国家なり、生命なりが判ったかのように使う ことがある(実は、サッパリ判らない)。或いは、その言葉で表象する内容が、共通だと 錯覚する危険がある(実は、サッパリすれ違っている)。従って、一般論としては、これで 良い。 ・"日本の"と、冠を前置して「日本のヤキイモ屋」の『共通の「土俵」』というものを考えるとして、 どんな意味があるかである。全国で商売している個々のヤキイモ屋は、条件はみな違うなか で、自分のやり方で商売している。…ここで"ヤキイモ屋"を"農業者"に置換しても同様と私は 見ているわけだが(例外はあるかも知れぬが)。 ◆これを、「日本の農業の本質的問題」などと(この中身については、僕はまだ何も書いて いない)、さも重大そうに書いているが、実は、そんな問題提起自体が無意味なんだ、と主張 しているものと受け取った。 ・各々農業者の周囲の環境は皆異なっている。唯一無二だ。『共通の「土俵」「舞台」』を想像 しても良いが、逐一本人に総当りして確かめない限りは仮想に過ぎぬ。仮想を根拠にした 思考の展開は自家撞着か、単なる空想に到る。ようするに、"日本の"と、括るもしくは束ねる ことで(統計などの調査データ)、何かしら抽出できると考えるのは幻想のような気がすると 言いたいだけだ。 ◆個々の農業者は、常に具体的存在で、唯一無二だ。しかし、社会システム、法制、慣習 等によって共通にくくられる、或いは外国に対して「日本」と総括できる「日本の農業問題」と いう問題はありうる。しかし、そのような問題の立て方は「逐一本人に総当りして確かめない 限りは仮想に過ぎぬ」から、単なる空想に到るという主張は、「考える」という行為そのものを 否定するに等しい。人は、言葉によって「考える」が、言葉の意味は、その意味対象に「逐一」 総当りした結果として定義されているわけではないから。 ・日本に暮らす農業者はすべて「外国との競争に曝され存在自体が脅かされて」いるんだろうか? ◆どんな一般論にも、例外を指摘しうる。例外を指摘することで、一般論の意味を否定すれば 一般に、全ての議論は無意味になる。 結論として、僕は「効率最優先が、本当に、日本の農業問題の本質的問題だったのか?」と 書いたわけだが、そういう問題提起自体が無意味だと云いたいのか? (僕が、一貫して「農業」問題と書いている点を、農業者問題に置き換えているが、これは 意図的にそうしているのかどうかは分からないが、僕はこの置き換えを意図的に無視して いる)。 だとすれば、この問題はある意味では形式的問題に過ぎないから、これ以上書くに及ばない。 僕は、そういう問題提起に意味があると考え、信州地湧仙人は「単なる空想に到る」所詮は 無駄な所作と考える違いに過ぎないから(実際に、何かを書く前に無駄だと言われても、どう にもならぬ、それで意気阻喪するわけでもなし!試行錯誤とは、そういうもんだ)。 それとも、別の何か、こういう考え方をすることで、疎外される、或いは無視され・切り捨てられ てしまう、重要な問題があるという思考の盲点を指摘しているのか? だとすれば、それは何かを具体的に指摘することで、議論は初めて生産的になりうる。
by agsanissi
| 2008-02-20 05:38
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