2008年 02月 22日

体感とモデル

岩手の現場に戻ってから三日経つ。
毎朝、5時頃に外に出てみるが、20日の朝はやや寒さを感じた。21日の朝は、寒風が
吹きまくり、酷く寒かった。今朝は快晴無風状態で、温かいというほどではないまでも、
寒気はゆるんだように感じた。
アメダスの観測地点は、僕の家から3キロほどの開けた場所に設置されているが、気温
の条件は、ほぼ同じと見ても良い。
それで、アメダスの記録では、20日は△5.2/6.1度、日照3.5時間、風速1メートル、
21日は△0.5/3.6度、日照7.8時間、風速4メートル、今朝は△6.5度、風速1メートル。
風は、場所によって大違いの傾向があるから、大体の傾向を表すだけだけれど、気温や
日照時間は概ね、この通りと見てよい。
僕の家のある場所は、海岸に近く、標高はゼロ、風は風向きによって違うし、また裏山に
あたる風音が実際以上に感じさせることもあるし、風向きによっては吹き降ろしが強いこと
もある。畑のある山の標高は200メートルで、直に太平洋に面している。風も強いし、最低
気温は、地上よりも2-3度は低い。

「考え方」との類比で言うと、アメダス統計はモデルと見てよい。それは、普代の様々な地点
の代表値というわけでもないし、平均値というわけでもない。要するに観測地点の、ある規定
の観測方法による観測結果にすぎない。観測方法や観測器具を変えれば、観測値は変わっ
てくる。「観測値」というのは、そういう様々な要素を含んだ近似値に過ぎない。気温に限らず
重さも、長さも、ある意味では世の中の全てのものが近似値に過ぎないといっても良い。
(大体、人間の身体の部品は、約二ヶ月で全て入れ替わってしまうことから考えると、自己
同一性というものだって、近似値に過ぎないといっても良い。議論を、ここまで広げてしまう
と訳が分からなくなるから、まあ、話を元に戻そう)
そうは云っても、他の地域と比較したり、普代の他の時期と比較して、ある種の傾向を掴む
には便利な指標だ。そういう意味でモデルになりうる。この場合、モデルというのは、普代村
の気温の代表値といっても良いし、比較対照値といっても良い。これをモデルにするのは、
いろいろな比較対照をして考えるための方便だと見なしてもよい。
モデル値は、当然、普代村の各地での実際の気温とは違うし、まして各地で感じる体感温度
とも違う。それぞれの値は、みんなそれなりの意味を持っているけれど、ある程度、客観的に
「普代村の気温」を知りたいと思えば、モデル値を使うのが適当だ。何故そうなのかは、客観
的という言葉そのものの中に答えがある。

いきなり話は、飛躍するけれど....
意識的・無意識的の違いはあっても、人は考えるときは、頭の中にある種のモデルを作って、
そのモデルを参照して考えている。そもそも、パターン化されたモデルを持っていなければ
考える行為そのものが不可能じゃないのかと思う。
大脳生理学の知見では、どう云ってるのか知らないが、考えるときばかりではなく、見る、聞く
感じるなどの感覚的作用さえも、ある意味では認識パターンの記憶(これはモデルといっても
良い)がなければ、本来の意味では働かないのではないか。
例えば、自分の夫、妻、子供などを、それと認識するのは、頭の中に夫、妻、子供のモデル像
が記憶としてあるからで、もしこのモデル像の記憶が失われてしまうか、あるいは感覚器官が
モデル像を参照する回路に狂いが生じてしまえば、目の前に居る夫、妻、子供などを、それと
認識できなくなってしまう。
なぜ、こんなことが起きるのか?それは感じる、考えるという認識作用は、脳内に蓄積された
ある種のモデル(認識パターン)を参照することで成り立っているからだと思う。

科学的認識というのは、このようなモデル像を他者も見ることが出来るように、文章化したり、
数式化したりして、客体化することだ。頭の中にあって、作ったり・壊したり・修正しているうち
は良いが、一旦、客体化されてしまうと、あたかもそれが現実であるかの倒錯現象が起きる
ことが厄介な点だ。
考えるという行為には、どんなに科学的・客観的に認識しようとしても、現実を認識しようと
する試みには、必ずこのような危険が潜んでいる。
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by agsanissi | 2008-02-22 08:03 | 気象/季節メモ


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