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カテゴリ:考える&学ぶ( 81 )


2012年 03月 05日

日々雑纂

・昨日の15時過ぎから小雪舞う。今朝4時56分に風雪・波浪注意報が出される。その後、大雪・着雪注意報も、
15時現在20ミリ程度か、霙風に変わり、レーダー上の雪雲は消える。後雨、やや強めの雨。
・予報では、15時頃から雨に変わり、その後霙に変わり、明日昼前後まで続き、後曇に。
・終日在宅、書籍、溜まったFiles、書類など全面的に整理。

・Amzonの検索で「類義語辞典」を探していて【日本語大シソーラス】が大修館から発行されている(03年/09)
のを知って、早速注文した。
・Amazonの内容紹介に「言葉探しのための最強・最大のデータベース誕生!
19世紀半ばに刊行された英語の類語検索辞典『ロジェのシソーラス』は、英文を書くためのツールとして広く
長く愛用され、今日に至っています。同じ発想に基づく「日本語シソーラス」は、日本でも各界から要望されて
いました。しかし編纂の困難さから今まで作られたことはありませんでした。今回じつに二十数年の歳月を
かけ、初めて『日本語大シソーラス』が誕生したのです
」とある。
・約1500頁の内、実に三分の一は索引に充てられている。ある意味、これだけでも画期的な試みだ。
・普段は、30年余前に角川から出された【角川類語新辞典】を使っているけれど、今ひとつ物足らない。中途
半端に意味や例文を載せているため収録語彙数が制限され、”ちょっと違うんだな”との感が否めない。
・この点、【大シソーラス】は、どうか。まだ昨日、手に入れたばかり。試しに「海」を引いてみる。角川の索引で
は、「海」の他に海の付く言葉に海亀、海千山千、海鳴り、海開き、海坊主が載っている。大シソーラスには
海、海が湧く、海千山千、海鳥、海鳴り、海の藻屑、海の物とも山の物とも、海開き、海辺、海寄り、海を渡る、
とあって、その下に小分類が幾つかある。例えば「海千山千」の小分類は世馴れる、世故に長ける、浮世の
習い、狡賢い、鉄面皮、これ見よがし、とある。角川の方は「人事」の大分類に関わる「人物」、「性向」の中分
類の中の二箇所を指示している。
・さて、本体の「海」。角川は43の関連語を載せている。大シソーラスの方は、海の関連語に16の関連語を
載せ、その関連語の内の一つ海の「固有名詞」だけでも70~80個を収録している。
・とことん「言葉」に拘り、関連付け・分類し、言葉の星々が織り成す小宇宙を垣間見せてくれる感を抱かせる。
Amazonのレビューの中に「これは類語の語彙だけが羅列されている辞書だ」と不満を書いている方がいる
が、ただの羅列ではない。
・編者の山口氏が「跋語」で書いて居られる通り、「これは一つの世界観だ。分類するとはひとつの世界観の
表明だ
」「妙な発見。ただの分類作業と思っていたが、どうしてどうして。言葉の背景となっている文化への
確固たる判断を要求される

・僕は、直ちにヨハネ伝の冒頭の句を思い出した。When all things began,the WORD already was.
・試しに、一昨日、僕が書いた「いまさら何で漢文だ」等と嘯いての「嘯く」を索引で引いてみた。載ってない。
「日本国語大辞典」を引くと、7つの意味が載っている。最初の意味は「口をすぼめて息を強く吐き、また、音を
立てる」とあり、日本書紀からの用例が載っている。更に詩歌などを吟詠する、感嘆の余りため息をつく、虎が
吠える、照れ隠しにそらとぼける、強がりを言う、などと変わってきたことが分かる。「字通」には、口をすぼめ
て声を出す、長く声を引いてなく、口笛を吹く、などとある。「大言海」には「虚空に向かって息を吹き出す」との
意味が載せてあって、その中の一例として「空嘯くというは、人言を斥けて、聞き入れぬ意」と解説している。
・試しに「大シソーラス」で「歌う」を引いてみると、歌謡の中に「朗詠、吟誦、長吟、吟嘯、誦す」と吟嘯が載って
いる。但し索引には「吟嘯」も載ってない。
・このような作業も、CD-ROM化されれば、「嘯」で検索すれば、直ちに関連語がヒットされるから一瞬のうちに
一覧表ができて索引も、さらに充実されるだろうが(CD-ROMも販売されているが、これはまだ買ってない)、
過去30年以上にわたってノートとカードで営々積み重ねてこられた努力は只々驚嘆の他ない。
・収録語数は異なり語で20万、延べ数32万という。毎日、100語引き続けても僕は75歳を越えてしまう。数
だけ誇っても仕方ないとは云うものの、類義語は多いに越したことはない。編者は、「序」で「本書をまとめる
にあたり、ことに索引の段階で、最も困難を極めた元凶は表記の乱れであった」と書いておられる。先の嘯く
が載っていない一因も、ここに起因するかも知れない。しかしこの「乱れ」は、同時に日本語の多様性・自在性
でもある。「跋語」に「日本語とは如何に乱れた言語か!」作業しながら何度も何度も前に遡って確かめなくて
はならなかった腹立たしさがまだ燻っていた。
と書いて居られる。
・と同時に、基本作業の終わった段階での感慨として、「日本語とは如何に美しい言葉か!」やがて体の底
から熱い感慨が沸き上がってきた。「人は、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ。
それ以外の何ものでもない。
」とシオランからの引用を交えて書いて居られる。
・このニ様の相反する感慨は、多少でも外国語と日本語に真剣に立ち向かった経験のある方には共通する
思いではないかと想像する。僕も、若い頃、英語・ロシア語・フランス語・イタリア語などをかじり始めた時に
「日本語の乱れ」というか、非論理性に苛立ちを覚えたことがある。しかし今は、他の言語の方は忘れ始めた
けれど、逆に日本語(漢字文化を自国の文化に取り込み自在に活用する様も含めて)の変幻自在・融通無碍
の姿に、躊躇なく感動を覚えると断言して憚らない。
・尤も、この言葉を無惨にも改変して極端にまで短縮・省略して恥じない若者文化には「植民地根性」の卑しさ
を覚えるのは、僕が歳をとりすぎた証だろうか。

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2011年3月は何をやってた??
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by agsanissi | 2012-03-05 18:08 | 考える&学ぶ
2012年 03月 03日

中国古代文化

・08/12/10の日誌を読み返したら、
最近、さっぱり読み書きしなくなって錆付いてしまったロシア語・フランス語をリフレッシュするか、それとも今後
の世の中の変化を考えて新たに中国語をやろうか迷った。結果、大して役立たずのフランス語をはずして、依然
として魅力的なロシア語と中国語と両方ともやろうと決めた
」等と書いてある。
・その後、何がどう変わったのか(その経緯を書いているのか)覚えてないが、中国語は止めて(止めた原因は
比較的読めるわりには発音が難しくて、音声入りの辞書が必需品で、そこまでやるかどうかちょっと考えてから)
09年に一年かけてロシア語を、10~11年とフランス語(これは一年ではちょっと無理だった。後は語彙数だけ)
を、それで今年は漢文&漢詩文を本格的にやろうときめた。
・今年は何語をやろうかなと考えているときに、偶々、右手を自在に使える練習を年末から始めて、人体解剖図
のイラストやら漢字練習を右手でやっているうちに、改めて漢字の成り立ちに深く興味を覚え、「そうだ!漢文&
漢詩文を本格的にやろう」と思い立ったわけ。
・高校時代に漢文を習っているが、「いまさら何で漢文だ」等と嘯いて、まじめに勉強しなかった。その後、折に
触れて、史記、三国志、論語、荘子、老子、唐詩選、陶淵明くらいは拾い読み程度はしたけれど、到底、本腰
入れて読んだとは言えない。
・前に「この国の”行く末”」を本格的に考えるには、望遠鏡と顕微鏡が不可欠だと書いたけれど、その望遠鏡
の一つとして史記や漢字文化の基礎を勉強し直しておこうと考えた。ちょいと迂遠な気がしないでもない...。

夏王朝
・Wikiには「夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝」「従来、伝説と
されてきたが、近年、考古学資料の発掘により実在可能性が見直されてきている
」とある。
・更に「炭素14年代測定法により、河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡などに
痕跡を持つ二里頭文化が夏の時代に相当する年代のものと略確定するなど、文献史料のいう「夏」は二里頭
文化に比定される。しかし二里頭文化が文献史料が示す「夏王朝」と同じである訳ではなく、文献史料のいう
「夏王朝」には戦国時代以降の思想が多分に紛れ込んでおり、二里頭文化が構成した「夏」が、王朝・初期
国家としての実質を持ったものであるかという意味では疑問が多い
」云々と記している。
・【中国の歴史】第一巻(陳舜臣、平凡社)92pには、実在も非実在も証明されていないが、時期的に云えば
「竜山文化が夏王朝の時代にあたります」とある。
・102pに、竜山文化遺跡に「すでに鑽灼を行った獣骨が発見されています」「悲しいことに文字が刻まれて
いません」「獣骨といっても、大部分が牛の骨なので、亀骨牛骨とも称されています。...現在まで出土した
甲骨はほぼ10万片と推定
」云々とある。まだ漢字文化はなかったと推定してほぼ間違いないか。
・Wikiによると、「龍山文化(りゅうざんぶんか、龙山文化、拼音: Lóngshān wénhuà : ロンシャン・ウェン
フア, 紀元前3000年頃-紀元前2000年頃)は、中国北部(華北)の黄河中流から下流にかけて広がる
新石器時代後期の文化である」「中原龍山文化(河南龍山文化と陝西龍山文化)および山東龍山文化に分か
れている。山東龍山文化は黄河下流を中心に存在した大汶口文化に続いて現れており、河南龍山文化は
黄河中流に存在した仰韶文化に続いて登場している」「陶器のほか、石包丁など石器や骨器などの武器や
道具、ヒスイなどの玉なども出土している。龍山文化の後期には青銅器も出現」「龍山文化の社会に現れた
大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が
出現した」「農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に
比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産
の開始も確認されている
」とのこと。
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by agsanissi | 2012-03-03 05:45 | 考える&学ぶ
2009年 09月 14日

都市近郊農業の試み

「農のある風景」というこの作業日誌の表題は、
「農」が、日本の、というより国土の原風景であり、「農」を失えば、それは同時に国土の喪失にも等しいと
考えるという思いの現われだ。而して、敢えて声高に主張せず、そっと静かに、あたかも自然の一点景の
ように、風景に溶け込む様に生きたいという願いでもある。
それは、日本の風景の中に「農」という生き方を残したいという消極的思想と「農」を捨てれば我々は日本
の社会・文化の礎を喪失することに等しいという積極的思想の表明でもある。といって稲作文化が、日本
文化の基底だといった矮小化された考え方とは無縁だ。(07/07/22、「日本人は稲作農耕民か」参照

もちろん僕は、「農本主義者」ではない。だがしかし、第一次大戦後に独占資本主義が急速に発展し都市
の急激な発展と膨張の中で、農村からの人口流出と農村の疲弊が広がると共に、農業・農民・農村こそが
日本の社会体制の「基軸」だとする「農本主義」運動が、かつて日本にあったことを反省するに如くはない。
いまや日本の「農」は、国土の数%、労働人口の数%、国民総生産に至っては実質マイナス数%の現実を
前に、「基軸」どころか、その葬送の詩さえ聴き取れぬ呟きにも等しい。

いまや「農」は、その役割を終えたのだろうか?
かつて工業は、農村から生まれ、農業によって育まれた。世界史的に見てそうだ。やがて独自の動力源を
利用する技術を獲得すると共に、工業は農業から相対的に独立し、工業と農業は著しい跛行的発展を
遂げた。その結果、農業は工業に従属し、農業人口は工業人口の供給源となり、農村は都市に依存し、
世界の農業地帯は世界の工業地帯に従属させられた。
人は、このような現実を前に思想の倒錯を引き起こす。幻影こそ現実であり、現実こそ幻影であるかの
ような。あたかも生産工業に対して著しい跛行的発展を遂げた金融資本こそが富の源泉であり、富の創造的
発展の賜物であるかのようなバブルの幻影に溺れたように。

生命は土によって育まれ、土に返っていく。仮に「農」という営みを植物生産を通して太陽エネルギーを
利用する技術との本質的意味合いで考えれば、人は「農」なくしては生きられない。生化学的には光合成能
をもつ独立栄養の植物に対して、人間を含む動物は植物に栄養補給を依存する従属栄養生物だから。
というわけで工業がどんなに発展しようと、工業的に植物生産が出来ないように(「植物工場」で「食物は生産
されている」などと誤解しないように。一粒のタネも工業的には生産できない)、「農」なくしては人間生活は
成り立たない。(「農」にとって、土が本質的意味合いが有るかどうかについて関心のある方は、「講読の部屋」
の「土壌・肥料学の基礎」参照の1.土壌の概念及び3.土壌の物理的性質の中の【脱線】あたりを読んで
頂ければ幸い)

と、ここまで書いてきて、ほんの十数年前には、否、五年前でも宜しい。こんな話も「引かれ者の小唄」の
ようにしか聞かれなかったが、いまではもっと素直に(あるいは直截に)受け入れられるのかなとの感慨を、
ふと抱いた。(参照
70年代から90年代にかけて、農業・農村は、工業労働力の供給源としても枯渇し、安い食糧供給基地と
しての意義も低下し、農業労働力の高齢化と共に、高度経済社会の単なるお荷物のごとく扱われ、とりわけ
都市農業は地価上昇を当て込んだ擬態の如く疎まれ、国家の補助金政策にのみ依存して、かつかつ社会的
再生産を維持する寄生階級の如くに見なされてきた。
グローバリゼーションの進展は、洪水のような安い食糧品輸入を促進し、国内農業の基盤を益々狭隘化し、
「日本で農業で営む」行為は世界一高い地代と世界一高い賃金をコストに、極度に付加価値の低い農産物を
生産する反動的アナクロニズムの如く見なされた。

だが時代の風潮は、いまや変わったようだ。何がどう変わったのか?
それを、ここで僕が論うのは、敢えて止めよう。何年かをかけて考えていけばよい!

戦後、自民党政権が掲げ、我々自身が支持してきたいき方を変えなければならないという、かなり深刻な
転換を遂げようとしているのかも知れない。

しかし僕は、世の中を一色に染め上げるような生き方は嫌いだ。
多様な形態が、その多様な形態のまま、互いに依存し、連携し、支えあい、各々の存在価値を認め合う
かたちで並存しうる、大小さまざまな動植物が各々の生活圏の中で生活し、自然の循環を形作っている
森のような営みが良い。
阿呆な役人的発想で、生産性の向上のみを唯一の価値ある生き方のように一色に染め上げ、「経営所得
安定対策」の鋳型の中に流し込もうなどという発想は、一場のお笑いに過ぎない。

僕は都会を捨てた。周辺を己の姿に似せて、一色に染め上げていく「都会」的生き方が息苦しく、そんな
生き方は御免だと思って都会を捨てた。
しかし都市か農村か、工業か農業か、あれかこれかという選別的選択ではなく、都市と農村の対立を止揚し、
工業と農業の対立を止揚し、新しい原理に立った生き方を模索していくには、「都市近郊農業の試み」こそ
貴重な灯火かもしれないとも考えている。

c0048643_23561561.jpg
そんな思いで、かつてこの日誌で(05/02/20、参照
「都市近郊農業の試み」を書いたことがある。
また「都市近郊農業」(参照)の中で「糧工房」を紹介したこともある。
その「糧工房」を拠点にした
「都市近郊農業」の独特な困難を抱えた試みの記録が
一冊の本(参照)にまとめられた。

ブームとは無縁の愚直な試みの記録が、この戦後の
大きな転換期の中で出版されることも、新たな胎動へ
の予兆なのかもしれない。

糧工房のブログ「雨読晴耕村舎の日々の覚書」(参照
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by agsanissi | 2009-09-14 00:07 | 考える&学ぶ
2008年 05月 01日

「毒」とはなにか?

以前、「土を考える」を書いていたときに農薬の毒性に関連して「毒」とは何か?をきちんと書い
ておかなければと考えていたのだけれど、未だに果たしていない。

化学合成された物質を忌避して、天然素材のものなら安心する素朴な心情は、まあ「反科学
主義」の流れとして理解できないことはない。西洋と東洋では「自然」の受け止め方自体が
違っているだろうし、これはまた僕の単なる直感なのだが、科学する態度そのものに微妙な
違いの影を落としており、科学的客観主義といっても一様ではないのではないか。

これは余談として、ある物質が「毒性」を持っているかどうかを判断することは、それほど単純
なことではない。天然にない合成物質は、自然にとって毒だという考え方もあるが、これは明確
で分かりやすいけれど、これは単なる信念のようなもの。他人の信念をけなすつもりはないが、
天然と合成との境界線は、アダムとイブがリンゴの実を食べて以来、微妙な問題だし、本質的
な意味では科学的合成物など何もない。こういう哲学的話は脇においても、「毒性」を計るには、
必ず量と質を問題にしなければならないが、農薬の「毒性」を問題にする議論には「質」だけを
云々する偏頗な議論が多い。僕なりの考え方をまとめるのは、またいつかのことにして、4/28
の農協新聞に「毒性とは何だろうか」という関連したコラムが載っているので、問題提起として
紹介しておこう。

以下引用。
いったい毒とはなんでしょう? という問いに対し、多くの方が「そりゃ簡単な質問だ。飲めば
すぐに死んでしまうものを言うのだよ」とお答えになるようである。はて、そうであろうか。確か
に青酸カリのように飲めばイチコロのようなものがあり、毒に対しては怖いイメージがつきま
とう。けれども、この世には色々な物資があり、天然物質や化学物質やらそのどれもが多か
れ少なかれ毒性を持っているのである。このことは、幾度となく農協新聞さんでも取り上げ
られているので、多くの読者の方がご理解なさっていると思う。
 そう、毒というものは、「あるかないか」ではなく、「強いか弱いか」で判断しなければならない
ものである。農薬にしろ、医薬品にしろ、物質が持つ毒性を上手に使っているに過ぎない。逆に
いうと毒性があるからこそ、薬にもなるのである。昔から、何の役にも立たないことを指して
「毒にも薬にもならない」というではないですか。
 ところが、現在の農薬に対する反応をみていると、「虫が死ぬから毒だ」とか「草が枯れるから
人間にも影響があるだろう」といった非科学的なものが多いような気がする。人それぞれに考え
方があるので、全否定するつもりはないが、それが「全て正しい」と思いこむのはどうかと思う。
農薬の毒性試験って「これでもか!」というぐらい安全性に関する試験データが求められ、虫は
死ぬけど人やトンボには大丈夫だとか、草は枯らしても人は枯らさないなどの証明データが
きちんと整備されている。
 ADIや基準値にいたっては、動物実験で毒性を示さないという量からさらに100倍も1000倍
も安全見越した数値が採用されている。トンボは、世の中に農薬ほど特性や安全性が明らかに
されている物質はないと思うのだがいかがであろうか?
参照
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by agsanissi | 2008-05-01 06:19 | 考える&学ぶ
2008年 02月 27日

閉鎖的ギルド社会

△1.8/0.3度、辛うじて真冬日を超える、日照2.7時間、昼前後雪が一頻り舞う。

日本の農政の基本的性格について、真っ向から対立する二つの意見がある。
・長年の「低生産性農業」を自己利益の道具としてきた役所、政界の戦略は、グローバルな
農産物価格の急騰で崩れている。(08/01/19、参照
・「効率最優先の農政からの脱却を」(08/02/16、参照

確かに、農水省は約半世紀にわたって「生産性向上」を謳ってきた。が、他方では基幹作物と
された米の生産調整を約40年にわたって続けてきた。水田の社会的機能がどうであれ、生産
調整と生産性向上は一般的には両立しない。この点を考えれば、日本の農政が「効率最優先」
に走ってきたなどという批判は、単に悪い冗談でしかない。
産業としては、既に事実上、壊滅状態にあり、高齢者と兼業農家が大半を占め、新規参入者は
殆どない。このまま推移すれば10-20年内には確実に耕作者が消えてしまう。
「自然を相手にし、人命を支える食料生産を担う農業」には「効率や利益を追い求める競争原
理」はなじまないなどと高尚な職業倫理を説いたところで、自分で田畑を耕すだけの気概もな
し。食料安全保障の立場から、どんなに口を酸っぱくして農業の重要性を説こうと、新たな参入
者が生まれなければ、産業として確実に消滅する。

農業就業者、耕地面積、自給率などの数値が、もっと悪くなるのかどうなのか、歴史的には、
ほぼ限界値に近いとは思うが、夜明け前が一番暗いというから、多分、目先は悪くなる他ない
のだろう。

【食料自給を考える】は、「食料自給率」という穴を通して農業・農業政策を考えた場合、どういう
情景が見えてくるか、ということで書き始めた。皆さんが、どういう情景を見たか、充分に正確な
イメージを形作れるだけの素材を用意できたかどうか心許ない面もあるが、現状で僕に書ける
のはこんなものだ。

その結果、僕に見えたのは、非常に大雑把な表現でいうと、日本の農業社会はギルド社会だと
いうことだ。農水省・農協・土地持ち農家・農林族政治家・土建業者などで形成される囲い込み
産業で、一般社会の利益よりも囲い込み内部(すなわちギルドだ)の利益を優先する閉鎖的
産業だ
(「ギルド」については、取敢えずウィキペディアを参照)。
この点、貧農切捨て・零細農家切捨て・選択的切捨て・効率最優先などと見当違いな批判を繰
り返してきた農政学者も、ある意味では、ギルド社会の補完物と見なして良い。

今日、日本の農業が陥っている困難は、このギルド的なあり方が完全に社会的要請と背馳して
しまった点にある。ここから脱皮できるか出来ないか、脱皮できなければ自滅する外ないという
切羽詰った状態にまで陥ってしまったということではないのか。
モルガンスタンレーの研究主席の分析のように、世界的な農産物価格の高騰がギルド的閉鎖
性を打ち壊す切っ掛けになり得るかもしれない。

もち論、「食料自給を考える」の中では、ギルド社会だという批判を展開してこなかった。むしろ、
唐突な結論に見えるかもしれない。しかし、この点をきちんと展開するためには「食と農のドロド
ロ」(08/02/01)の中で触れたように農地制度を初め、戦後の農政全般を分析しなければ、殆
ど何も書けない。将来の課題だ。
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by agsanissi | 2008-02-27 21:25 | 考える&学ぶ
2008年 02月 23日

現状で書けることは...

昨日は、多少、お門違いな脳内のことにまで話を飛躍させてしまってちょっと興醒めな
ことを書いてしまったかなと反省している。今日は気持ちを取り直して、信州仙人のコメント
の感想(というより、読みながら頭に去来した事共)を書いておく。仙人のコメントは青、僕の
コメントは◆を付す。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-22 00:24 x
火縄に点火したのは食糧自給シリーズに端を発するところの、石油エネルギー依存の社会
システムが背景や、”自給率低下”というモノサシより”依存率拡大”のモノサシで考えるとどう
なのか、人間の幸福度というモノサシならどうか、と舞台の袖でものを言うあたりだろう。ここで
私の腹蔵の罪を告白するなれば、本編舞台上の精緻なる文体に貫徹している"モノサシ"を
換えたら文脈が変わるのじゃないかと、コペルニクス的展開を期待したこと(私の稚拙な投げ
文では叶わず)

◆「依存率拡大」という言葉を見たとき、ハッとした。虚をつかれた感じですね。誰にも死角は
ある。特に、何事かに集中しているときは、この死角が広がる。例えば、車を運転するときは
視点を何かに集中させず、茫漠と前方を見なさいを注意される。視点を集中させると、死角が
広がり、事故率が高くなる。そんな感じですね。
「依存率拡大」の一言が、最初のコメントにあれば、多分、もっと別の反応があったでしょうね。
とはいえ、そうは簡単にコペルニクス的展開が叶うものではない、時間が必要だ。

矢継ぎ早に更新される内容は、私からすると体感速度が早いので話題となるテーマを追って
いくのにまごつくこと多々。数日間の記事を追えないまま《「効率最優先」の農政が問題なの
か?》を目にし、"日本の○○"という記述に反応した。十把一絡げに農業を右に左にとの展開
にやや違和感を感じたので、もっと個々の農家の生活を含めた、周辺の環境や文化の上に
成り立つ農家の暮らし方のありよう
を考えるべきだと言いたかった。『「効率最優先」の農政』に
絡む前段において、土台となる農家の目線がどこを向いているかが捨て置かれているように
感じたからである

◆僕の感性には「十把一絡げ」という捉え方はない。実際に、「個々の農家の生活を含めた」
云々の部分を具体的に展開できるかどうかは、僕の経験、勉強、認識に依存している。
08/02/11「宮本常一の目」で「半分は都会人の目で農業を観察しているかもしれない」と
書いたのは、日本の農村についての認識が決定的に不足していると感じたからだ。
その認識不足のせいで、「十把一絡げ」に陥ることはあっても、感性としてそれで良しとする
ことはあり得ない。これこれの部分は「十把一絡げ」の捉え方だという批判なら、直ちに反応
するけれど、「日本の.○○」の言葉にこだわるから、認識論や方法論、モデル論の話にまで
不必要に問題を広げてしまうのだ。これはこれで、何かの足しになったから、無駄だとは全く
思っていないが...。実は、僕も道草のほうが好きでね。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-22 00:25 x
農の営みは、拠って立つ土地特有の条件と地域の暮らしやコミュニティの関係性を共有し、
独自の地域全体の農村システムとして成り立ってきた。各々のローカルシステムは千差万別
であることは言わずもがな、水路道路の維持、田の水配りの当番などの他、生活行事と一体
の文化的な共同、密接な相互補完しあっての営農が基底にある。いわば村落運営全体複合
システムが存立していてこそ各農家は成り立ってきた。ここで、農村の持続性を担保してきた
ローカルシステムを揺るがしてきた負の文明スパイラル
をどう見るか。底流に潜む汲むべき
視点を見逃しては、皮相の現象を揶揄していても実りがないと感じたわけである。畢竟、言い
たいことは次の二点。

1.自給自立できていたシステムが崩壊していく過程を良く見ろ。
2.自然風土の中で生きる農の生々しい風景をもっと浮き彫りにしろ。

◆この点は、まさに指摘の通り。08/02/07「食料自給を考える/一応はまとめ/21」に
「よってたかってそのような扱いを押し付けてきたからそうなった」という一言を入れたのは、
そのような認識が前提にあったからだけれど、如何せん、現状では僕にはこれ以上のこと
を書けるだけの経験も知識も不足している。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-22 00:26 x
これらの伏線上で、考える土台や共通共有できる話題で展開が進むと勝手に期待し、《農の
ある暮らし》の源泉から本流に至る道を考えてみたかった。が、実際は山人さんが仰るとおり、
私の書き方が下手で、そう甘くはなかったということですな。私の場合、抽象的な概念を理解
するのも説明するのも一苦労。数学の話まで出た際は立ち眩みの態。日はとっぷり暮れて
道遠しだ。人それぞれに言葉から具体的イメージを連想し、問題意識と連結して考えが方々
にリンクしていく。人にもよるだろうが、一貫した体系を組み立てながら沈着に思考を躍らせて
いくより、発想の赴くまま進むほうが断然面白い
。だがついつい埒もない言葉の綾に絡まって
しまった。『重要な問題があるという思考の盲点を指摘』する以前でつまずいている失態。
『具体的に指摘することで、議論は初めて生産的になりうる』は順当な見解。私のやぶ睨みで
お門違いな袖の戯れのために徒に労を費やさしてしまった段、深くお詫び申し上げる。こういう
時は一歩退いて褌の締め直しするに限る。感謝

◆僕には、「一貫した体系を組み立て」ている意識は全くない。というより正反対の意識で、
いつでも書いている。思いつくまま、気のむくまま、脱線寄り道が本筋だからとさえ書いている。
これは謙遜でもなんでもない(一般に、僕は謙遜をしたことがない。逆に、他人の謙遜さえ、真
に受けることがある)、本心だ。
お互い自然体で臨めば、問題なし。最後の一句には、自然には無駄なものは何もない、という
ところですね。
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by agsanissi | 2008-02-23 06:16 | 考える&学ぶ
2008年 02月 20日

どう考えたら良いのか?

今日の太田述正コラム(No.2371)に、つぎのような記事が載っている。
日本政府の最近の調査によれば、外国人観光客の日本観光の目的は10人中7人までが
食だ。
昨年11月ミシュランが初めて東京のレストランのガイドブックを出したが、このガイドブック
によれば、パリ約2万店、ニューヨーク約2万3000店に対し、東京にはレストランが16万店
もある。
しかも、ミシュランが一つ星以上を与えたレストランは、パリ98店、ニューヨーク54店に対し、
東京は191店もあった。最高の三つ星が与えられた東京のレストランは8店あり、そのうち
5店が日本料理店、3店がフランス料理店であり、星が与えられたレストランの中にはイタリア
料理店、スペイン料理店、中華料理店やステーキハウスもあった。
これほども日本の料理の質が高いのは、魚文化のせいだという意見がある。
漁師達は鮮度を維持するため、水揚げしてすぐ血抜きをし、とれた海域と同じ温度と塩度の
水の中に、しかも傷がつかないようにパックして築地へと送り出す。


一方で、食生活の崩壊とか、日本人の食の堕落が論じられている。僕も書いてきた。
他方で、世界的に見ても超高級のレストランが東京にはある。

どちらか一方のみを取り出して、日本の食を論ずることが出来るのか?
あるいは、東京のようなあり方を、単なる例外と見るか?
それとも東京のような突出した例を含めた日本の食文化の(あるいは、もっと一般的に、
グローバリズムの一側面というような意味合いで)、ある種の「到達点」のようなものを
考えられるのか?
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by agsanissi | 2008-02-20 07:12 | 考える&学ぶ
2008年 02月 20日

結局、何を問題にされているのか?

認識論や科学的方法についての、僕の考え方は、主に「土を考える」で、折に触れて
書いてきた。ここでは、それを再び問題にしようとは思わない。一点にのみ絞る。

で、日本の農政は、本当に「効率最優先」だったのか???
本当に、それが日本の農業の本質的問題だったのか??

と書いた点に関して、次のようなコメントを頂いた。

・「日本の農業の本質的問題」を問うとするならば、すべての農家に共通共有できる問題
は何かを、レリーフのような浮き彫りにして論考を進めるべきだろう。《日本の~~~》と
いう、あたかも同じ土俵に立っているかに錯覚して、便利な言葉に潜む落とし穴に嵌まる
まい

◆言葉、一般的に概念には、常にこのような危険と思考の落とし穴がある。例えば、
国家、生命という言葉を使うことで、あたかも国家なり、生命なりが判ったかのように使う
ことがある(実は、サッパリ判らない)。或いは、その言葉で表象する内容が、共通だと
錯覚する危険がある(実は、サッパリすれ違っている)。従って、一般論としては、これで
良い。

"日本の"と、冠を前置して「日本のヤキイモ屋」の『共通の「土俵」』というものを考えるとして、
どんな意味があるかである。全国で商売している個々のヤキイモ屋は、条件はみな違うなか
で、自分のやり方で商売している。…ここで"ヤキイモ屋"を"農業者"に置換しても同様と私は
見ているわけだが(例外はあるかも知れぬが)

◆これを、「日本の農業の本質的問題」などと(この中身については、僕はまだ何も書いて
いない)、さも重大そうに書いているが、実は、そんな問題提起自体が無意味なんだ、と主張
しているものと受け取った。

各々農業者の周囲の環境は皆異なっている。唯一無二だ。『共通の「土俵」「舞台」』を想像
しても良いが、逐一本人に総当りして確かめない限りは仮想に過ぎぬ。仮想を根拠にした
思考の展開は自家撞着か、単なる空想に到る。ようするに、"日本の"と、括るもしくは束ねる
ことで(統計などの調査データ)、何かしら抽出できると考えるのは幻想のような気がすると
言いたいだけだ

◆個々の農業者は、常に具体的存在で、唯一無二だ。しかし、社会システム、法制、慣習
等によって共通にくくられる、或いは外国に対して「日本」と総括できる「日本の農業問題」と
いう問題はありうる。しかし、そのような問題の立て方は「逐一本人に総当りして確かめない
限りは仮想に過ぎぬ」から、単なる空想に到るという主張は、「考える」という行為そのものを
否定するに等しい。人は、言葉によって「考える」が、言葉の意味は、その意味対象に「逐一」
総当りした結果として定義されているわけではないから。

日本に暮らす農業者はすべて「外国との競争に曝され存在自体が脅かされて」いるんだろうか?
◆どんな一般論にも、例外を指摘しうる。例外を指摘することで、一般論の意味を否定すれば
一般に、全ての議論は無意味になる。

結論として、僕は「効率最優先が、本当に、日本の農業問題の本質的問題だったのか?」と
書いたわけだが、そういう問題提起自体が無意味だと云いたいのか?
(僕が、一貫して「農業」問題と書いている点を、農業者問題に置き換えているが、これは
意図的にそうしているのかどうかは分からないが、僕はこの置き換えを意図的に無視して
いる)。
だとすれば、この問題はある意味では形式的問題に過ぎないから、これ以上書くに及ばない。
僕は、そういう問題提起に意味があると考え、信州地湧仙人は「単なる空想に到る」所詮は
無駄な所作と考える違いに過ぎないから(実際に、何かを書く前に無駄だと言われても、どう
にもならぬ、それで意気阻喪するわけでもなし!試行錯誤とは、そういうもんだ)。
それとも、別の何か、こういう考え方をすることで、疎外される、或いは無視され・切り捨てられ
てしまう、重要な問題があるという思考の盲点を指摘しているのか?
だとすれば、それは何かを具体的に指摘することで、議論は初めて生産的になりうる。
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by agsanissi | 2008-02-20 05:38 | 考える&学ぶ
2008年 02月 18日

遠方より.../道中楽あり

舞台の袖で、小声で話していたものを、突然、表舞台に引っ張り出して素っ裸にしてしまう
のも、どうかと思わないでもないが、「思考方法」/物ごとを考えていく上での方法論、或い
はアプローチの仕方という点で興味深い点があるので、コメント欄からそのまま採録して
おく。
僕は、明日、12時間ほどドライブして岩手に戻る予定なので、ゆっくり車中で思案して
みようかと思う。今晩、20時頃までに再反論をしてもらえると、道中、楽しみが増えますな!

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-16 14:43 x
市中巷間を移動販売しているヤキイモ屋が《日本のヤキイモ生産販売業》を考えて
商売はしていないと思う。街中の床屋が《日本の理髪業》を考えて商売はしていない
だろうし、髭面のおっさんがパンク修理してる自転車屋が《日本の自転車修理販売業》
なんて考えてはいないだろう。同様にして農家と称する大半は自分の築き上げてきた
成業の位置づけに《日本の農業》を代表しようなどとは考えないと思う。

〔農業〕という括りは〔工業〕という括りと同様、便宜上の区分に過ぎない。内訳を限りなく
展開するとして、末端に到ってりんご専門、アルストロメリア専門り、スイカだの牛乳
だの蔬菜だの稲だのと、細かい業態がある。で、各々の農家が、自分の分野外の業態
をも包含する《日本の農業》を日々考えているだろうか?北海道の酪農家が沖縄の
熱帯フルーツ農家を眼目に置いて《日本の農業》を考えるだろうか?

「日本の農業の本質的問題」を問うとするならば、すべての農家に共通共有できる問題
は何かを、レリーフのような浮き彫りにして論考を進めるべきだろう。《日本の~~~》と
いう、あたかも同じ土俵に立っているかに錯覚して、便利な言葉に潜む落とし穴に嵌まる
まい。


Commented by agsanissi at 2008-02-17 02:35 x
日本の百姓は、日本の自然風土、歴史、社会システム、法制、慣習などなどの共通の
「土俵」の上に立っているという前提で考えているつもりですが、これに何か問題がある
とでも?
それとも、百姓の自己認識が「日本の農業」のあり方を規定するとでも云いたい訳ですか??


Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-18 01:57 x
厄介だなこりゃぁ。自問自戒のつもりが薮蛇に(笑い)。

語彙のイメージが異なっている節があるやも。「土俵」ではなく、「舞台」と言い換えた方が
よいか。いずれであっても、農家は国内に存する限り、社会システムや国の法制で等しく
網を受ける。が、各地域の多様な自然風土や歴史、慣習に『共通の「土俵」』はあるのか
ないのか…。もっとも、暮らしの文化の広がりにはドミノ式伝播があるから、発端とか起源
を辿りながら時系列で現時点での基層を考察はできる。

また繰り返してくどいが、"日本の"と、冠を前置して「日本のヤキイモ屋」の『共通の「土俵」』
というものを考えるとして、どんな意味があるかである。全国で商売している個々のヤキ
イモ屋は、条件はみな違うなかで、自分のやり方で商売している。「ここでやっている我が
ヤキイモ屋」のあり方は考えるだろうが、"「日本のヤキイモ屋」のあり方"など考えては
いまい。…ここで"ヤキイモ屋"を"農業者"に置換しても同様と私は見ているわけだが(例外
はあるかも知れぬが)。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-18 01:58 x
各々農業者の周囲の環境は皆異なっている。唯一無二だ。『共通の「土俵」「舞台」』を想像
しても良いが、逐一本人に総当りして確かめない限りは仮想に過ぎぬ。仮想を根拠にした
思考の展開は自家撞着か、単なる空想に到る。ようするに、"日本の"と、括るもしくは束ねる
ことで(統計などの調査データ)、何かしら抽出できると考えるのは幻想のような気がすると
言いたいだけだ。

『たまたま日本という国で、農のある暮らしをし、日々生活を耕している』が主で、従たるもの
に『主を脅かすものあらば迎え撃つ』気概に満ちた農家はあるのかね…。そもそも「日本の
農業」とは何ぞや?「日本の農業」を何かで規定できるのか?否、規定しなければならない
ものなのか?仮に規定できたとして「日本の農業」のあり方を代表できる農家、または農家
集団は存在しうるのか?それに該当するものを選出できるのか?スポーツ界のように「日本
の農業者選手権大会」を開催できる性質でもあるまいが。


Commented by agsanissi at 2008-02-18 04:52 x
コメント欄で応えるには、ちと厄介な面もある。取敢えず要点だけ、...。
いろいろな問題を、混同しておられる。
1.個と普遍性。具体的な生命は、如何なるものであれ唯一無二です。では、生命とは何か
という分析は無意味か?個々の全ての生命を総当りした結果として、帰納的にのみ生命を
論ずること、方法論としてそれ以外の方法はすべて誤りか?
2.仮説を立てて、それを実証していく方法は考え方として、あるいは学問の方法として、
自己撞着乃至単なる空想に到る方法なのか?非常に狭く限定して、例えば数学の仮定法
という証明法は、全て空想の産物か?
3.なぜ、日本の農業問題を論ずる論者は農業者以上に沢山居そうなのに、「日本の焼き
芋屋」問題を論ずる焼き芋屋学者は居ないのか?
イ.日本の歴史・社会システムの中で培われてきた焼き芋屋という存在がないから。
ロ.外国の焼き芋屋によって、その存在自体が脅かされている「日本の」焼き芋屋という存在
がないから。
ハ.焼き芋屋という社会的職業を規制する法制や省庁は、仮にあったとしても、農業者とい
うあり方を規制するシステムに比較すれば、問題にするに足りないほど小さいから。
4.学問の方法という点から考えると、
民俗学の対象は、一般論から入っても実りは少ない。何故なら、最初から「個の特殊なあり
方」を問題にしているから。他方、外国との競争に曝され存在自体が脅かされている「日本の
農業」を考えようとする場合に、必ず個々の農業者の「特殊なあり方」から思考を開始しなけれ
ば、自己撞着・空想的な議論に陥らざるを得ないのか?


★「信州地湧仙人」には、最初から不利がありますね。舞台の袖でしか発言できないのに、
僕は、舞台の上から、大声を出せるのだから(尤も、文字数では負けてますな)。でも、僕
には勝ち負けという意識は皆無ですから、「不利」などと、くれぐれも小人の遅疑をなさらぬ
よう。ただ興味深い問題提起とのみ受け取っております。
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by agsanissi | 2008-02-18 05:15 | 考える&学ぶ
2008年 02月 17日

曖昧さの「安心と不安」

08/02/15発行のJMM『オランダ・ハーグより』/第185回「てろてろ」と題する
ハーグ在住・化学兵器禁止機関(OPCW)勤務の春具氏の、エッセーは、いろ
いろな意味で面白い。エッセーの全文は、来週にはJMMのサイト(参照)で読め
ると思うけれど、僕の視点から見て「面白い」と思う論点を摘記しておく。
今回は、殆ど全文が引用だから文字色は変えない代わりに、段落ごとに▽を
付けておく。

久しぶりに帰国して、日本のテレビの話、
▽例によってメディアでは、大学の先生、評論家、ジャーナリスト、「食品表示アド
バイザー」などというわたくしははじめて耳にする専門家の方などなどの、識者・非
識者のみなさんが喧々諤々、意見を述べておられたが、いずれもコンプライアンス、
悪意の犯罪、業務上過失なんぞの文脈で、穏当なアプローチで論じておられました。
▽だが、おもしろく思えたのは、わたくしの見聞するかぎり、この事件をテロリズム
の視点から論じた論者がほとんどいなかったことである(数人はいたらしいけれど)。
これは興味深いことではないかと思うのですね。なぜなら、ヨーロッパに住んでいた
ら、これだけ不気味な事件ならば、すわテロか、と即座に反応すると思うのです。怪
人二十面相かアルセーヌ・ルパンの仕業と思われるほどの奇怪な事件なのに、だれも
テロだとは思わない、思っていない。
▽クリントン政権で国家安全保障問題補佐官を勤めたアンソニー・レイク氏は、テロ
であれ、事故であれ、確信犯罪であれ、わたくしたちはあたらしいタイプの事件に遭
遇すると、往々にして既製の思考回路をもって出来事を捉えてしまいがちである(と
論じている)。
◆これは、僕も実に不思議に思うところだ。08/02/01の「食生活を乱したのは誰?」
の中で、
中国の、たった一社の工場から始まった事件か事故が、こんなに広範囲な騒動を引き
起こせるとすれば、遅効性の毒物を意図的に混入して、冷凍食品として持ち込めば、
日本中を大混乱の巷に簡単に叩き込めるな、と考えるようなテロリストがいないこと
を願いたいね。

と書いたけれど、現状は様々な偶然の要素に恵まれて「安定」しているかに見える
けれど、物凄い脆弱性を内包した国家だと考えている。
こういう論点から論じないというのは、何か暗黙の了解でもあるのじゃないか、いわゆる
「空気」とも言うべき、一種のタブーでもマスコミ界にあるのかと疑いたくなるね。

▽彼の流儀にならうならば、テロ対策は想像力の枯渇により、往々にして後手にま
わってしまう。ですから、たかがギョーザなのでなく、こいつはテロかもしれないな
と想像しておくことが必要ではないか、とレイク氏はすでに言っているのであります。
なにしろ今夏には、北京でオリンピックが開催されるのだ。テロリストが予行演習を
したっておかしくないのではないか。
▽そして犯罪がテロリストの仕業だったらどうするか。どのように扱うか。

◆この後、テロリストという、最初から近代法の埒外に立っている被疑者を「公平に裁
く」ことの難しさを論じた後、
▽ギョーザ事件の容疑者が捕まって、テロリストグループの仕業という疑いがでよう
ものなら、ひとびとは興奮し、即座に有罪を叫び、刑の執行を叫ぶのではないか。そ
の様(さま)を想像すると、わたくしはイラクにおけるサダム・フセインと彼の閣僚
たちの裁判を思い出してしまう。大衆の興奮は、往々にして事実の確認と冷静な判断
にもとづいてはいないだけでなく、興奮は陶酔となって収拾がつかなくなるのであり
ます。わたくしはその興奮が「法の支配」をなおざりにすることを危惧するのですね。
杞憂だよ、日本はイラクとは違うよとおっしゃるかもしれないけれど、どこの国でも、
メディアと大衆はお互いに寄りかかり合いながら共存しているのであります。

◆一種の集団ヒステリーに陥りやすいかどうかという点で、国民性があるのかどうか
僕には分からないが、「とにかく一朝事があると、日本人はメダカの群れのように、誰が
指令するわけでもないのに、見事に同じ方向を向いて走り出す」(08/02/14参照)
性向があり、かつマスコミはそれを煽り立てるという点で、杞憂でもなんでもないと考え
ている。
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by agsanissi | 2008-02-17 04:20 | 考える&学ぶ