農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

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カテゴリ:考える&学ぶ( 81 )


2008年 02月 16日

「効率最優先」の農政が問題なのか?

今日は、問題提起だけ。

08/02/07の農業協同組合新聞「農協時論」に北原克宣立正大学准教授が「効率最優先
の農政から脱却を」と書いておられる(参照)。

「日本の農業はどうあるべきか」のテレビ討論の紹介から書き始める。
・自給率に囚われるべきではないとする論者は、市場原理による強い経営体の育成を
謳い、自給率を重視する論者は、補助金による農業保護を主張するという構図は同じ
であった。
・討論を見守っていた一般参加者に対して、「日本農業はコストをかけて維持すべきだ
と思いますか」との質問がなされた。“コストをかけて”という質問の仕方に意図的なもの
を感じながら観ていると、予想した通り、会場の女性から「私は会社員ですが、私の会社
では日々、コスト削減のために努力しています。農家の方も保護してもらうことを考える
前に、まず経営努力をすべきではないでしょうか」との発言があった。

そして筆者の意見、
私たちの社会は、いま「コスト=無駄」という図式を無批判に受け入れ、あまりにも効率
だけを重視し過ぎてはいまいか
、と問題提起した後、
・市場の失敗
・効率重視に伴う著しい社会的格差の拡大、を指摘し

効率や利益を追い求める競争原理は、教育や医療にはなじまない。この点からすれば、
自然を相手にし、人命を支える食料生産を担う農業にも同じことが言えよう。行き過ぎた
効率重視社会が、何をもたらしたのか。2007年の流行語大賞に「食品偽装」が入賞した
事実を、私たちは重く受けとめなければならない。


では「「効率最優先の農政から脱却」して、どこへ向かえというのか?
従来の政策は、一方では、工業製品の輸出による貿易黒字の確保、他方では世界市場
における余剰農産物の存在を前提条件として成り立つものであった。しかし、先に見た通り、
世界情勢とその日本経済への影響は、もはやこの二つの前提条件を崩しつつあり、この
事実を踏まえた農業政策への転換が求められているのである


そして、最終結論。
日本の農業政策に求められるのは、生産調整の単なる手直しではなく、食料生産全般に
わたる国家戦略を明確に示すことであろう。

ご本人は、何か大層な意見を述べているかに錯覚しているかもしれないが、空疎な空文句
に過ぎない。

一昨日、僕は、「阿呆臭い戦略を立ててメダカの鼻面(?)を引き摺り回して、奔命に疲れ
させるよりは遥かに増しだ」と書いた。これは、単なる思いつきでも、皮肉でもない。僕の、
昔の専門は幕末及び戦間期の政治外交史、とりわけ政治的意思決定の過程の研究だっ
たけれど、それを踏まえての、やや信念に近い意見だ。

では何が問題か?
本当に、日本の農政は「効率最優先」だったのか?
1961年、農業基本法が制定され、農業生産性の向上と選択的拡大を謳ったとき、北原克宣
氏の先輩諸氏も、基本的に同じパターンの批判を叫んだ。以来、ほぼ50年間、馬鹿のひとつ
覚えのように、生産性向上を謳う農政とそれに対する農政批判を繰り返してきた。

頭の空っぽな双生児のように、この農政にして、この農政学者あり、の好一対を成して来た。

で、日本の農政は、本当に「効率最優先」だったのか???
本当に、それが日本の農業の本質的問題だったのか??
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by agsanissi | 2008-02-16 07:52 | 考える&学ぶ
2008年 02月 12日

食生活の崩壊/その裏面

小泉武夫氏の【食の堕落と日本人】は、各章各節の表題を読むと、
中身を大体予測できる。全五章の表題だけ書き抜くと、
1.日本食を食べない日本人は堕落する
2.日本の食の堕落と崩壊
3.美しき哉、日本食の本質
4.日本食の将来
5.この国の食の堕落をいかに食い止めるか、など。

中身は、前に紹介した「高校生相手の講演」(pdf、参照)に多少の肉付けをしただけで、エキス
はこの講演に全部出ている。基本的認識の大筋は悪くはないけれど、やや一面的な誇張が鼻
につく時もある。まあ、我慢できる範囲内だけれど...。

二章の一節に「下ごしらえの大切さ」とあり、
・下ごしらえも味のうち
・むだを出さないことが下ごしらえの心得
・人生に通ずる「下ごしらえ」の大切さ
・学校の授業に「下ごしらえ」の時間を、という内容だ。

最初と二番目の要点は、次の通り。
・著名な料理人と対談したときに、「一流の料理人になるには何が一番大切ですか」という質問
をしたことがある。即座に「一流の料理人というのは気の遠くなるほど下ごしらえの場数を踏ん
でいます。そうやって料理人は育ってくるものなんです。芋の皮ひとつむくにも、魚の鱗一枚落
とすにも、心を込めて何年もやらなければ一流にはなれません。下ごしらえの場をどれだけ踏
んだかですね」と答えてくれた。90.p
・また下ごしらえの心得についてこう語った。「とにかく、無駄を出さないことが下ごしらえの基本
です。大根の先っぽやネギの青葉、魚の粗なんて、今の年季の少ない料理人は捨ててしまう
人が多い。私たちのような昔の料理人は、その部分も材料であると教えられてきたので、大切
に使ってきました。ですから下ごしらえは真剣にならざるを得なかったのです」91.p

こうした心得から見れば、最近の家庭料理(仮に料理として)は反対の極地にいるのか。
・出来合いの加工食品・調理食品・冷凍食品を多用する⇒下ごしらえがない
・下ごしらえがないにも拘らず⇒とにかくむだを出す
・食べ物を大切にしない⇒余ったものや賞味期限切れを無造作に捨てる

堕落の原点は「金があるから買ってくればいいじゃないか」という発想だ(49.p)と
書いているが、まさにその通り。
食材を吟味して集める努力はもち論のこと、食材の下ごしらえも、調理も、調理した食材を大切
にする心も、どれもこれもみんな、金で安直な出来合いの調理食品・冷凍食品・レトルト食品を
買ってくる代わりに、安直に捨て去ってしまった。
金で、品物を買う代わりに心を売ってしまったのか。

その一面が、前回の話題。その反面が今回の話題、すなわち家庭系食品廃棄物。

・「食品廃棄物の発生及び処理状況」(1996、厚生省調査による推計値、参照)によると
総量は1940万トン(内家庭ごみ1000万トン)、焼却埋立て処分が91%、肥料・飼料化は9%
に過ぎない。

・「食品循環資源の再生利用等実態調査報告」(農水省、pdf、参照)によると、
食品産業関係の廃棄物は1100万トン強、内食品製造業500万トン、外食産業300万トン。
01年から05年にかけてほぼ横ばい、やや増加(+4%)。

・「我が国における食品廃棄物処理の流れ」(05/12、pdf、参照)によると、概ね03-4年の
調査で、産業廃棄物480、一般廃棄物(外食産業など)650、家庭廃棄物1200、合計2330、
内再生利用420、焼却・埋立処分1900(81.5%)。但し、再利用の内訳を見ると産業系の
60%、事業系の16%は再利用されているのに対して家庭系は僅か2%が再利用されている
に過ぎない。

○家庭系の食品廃棄物の調査が「食品ロス統計調査報告」(01-05年、参照
世帯別の食品ロス率、食品使用量食品ロス量及び食品ロス率、食品類別の食品ロス率、食品
類別の食品使用量及び食品ロス量、食べ残し・廃棄した理由などを全国、地域別、都市階級
別、農業地域類型別、世代構成別に調査した統計及びアンケート調査

全体としては01年7.7%から05年4.1%に減少し、また複数世帯に較べて単身世帯は相対的
に多い(05年5.0%)。予想外なのは食品利用量は大都市のほうが多いのに、ロス量は町村
のほうが多く、従って大都市(3.5%)よりも町村(4.6)のロス率がかなり高い、また都市と農村
地域を較べると、同じく食品利用量は大都市のほうが多いのにロス量もロス率も農村地域の
ほうが多い。農村を都市的、平地的、中山間的地域に分けるとロス率は3.8、4.8、4.4%など
となっている。食品廃棄物の肥料・飼料などへの再利用率は都市よりも町村が高く、農村地域
のほうが高いが、一人当たりロス量の絶対量は農村地域>町村>大都市の順番になってい
る。

ところで、日本人が家庭で消費している食品の量は1人1日あたり1167グラム、可食部分の
食品廃棄量は1人1日あたり47.3グラム、食品廃棄率は4.1%、ということになっているが、
これで計算すると一人当り年間廃棄量は17.3キロ、人口を一億人として計算すると、
17.3×10^8キロ=17.3×10^5トン=173×10^4トン、すなわち173万トンとなる。
家庭系食品廃棄物が1200万トンとすると、実際にはこの7倍近くを廃棄しているはずだが、
どうなっているの?
考えられることは、家庭からの廃棄量は可食部に対する廃棄量だから、仮にこの部分を含めて
計算すると年間120キロ、1人1日あたり約329グラム、消費量約1.5キロに対して五分の一
強(329÷(1167+329)≒22%)を廃棄していることになる。

一方、食品産業系の廃棄物の再利用率は相対的に高い。「食品+廃棄」で検索すると、幾らも
関連記事を拾ってこられる。
「先端科学技術推進機構」の「食品製造工程から生じる廃棄物の有価物質への転換再生技術」
参照)というのがある。
食品廃棄物から生理活性物質を抽出・分離して、これらを天然物由来の医薬品、栄養補助食品、機能性食品および特定保健用食品として利用する技術と装置の開発、抽出後の残りの食物繊維残さからエタノールを連続発酵生産する技術の開発などを主なる研究目的としている。食品廃棄物は、廃棄物処理技術開発の中で最後に残された大きな地球環境上の解決すべき課題である。食品製造工程から廃棄される食品加工廃棄物(米ぬか、酒粕、ビール粕、ワイン粕、小麦抽出廃液、醤油粕、餡粕、チーズホエー、コーングルテン、大豆粕、おから、ミカン粕、コーヒー粕など)は大部分が焼却されており未利用のままである。」
このプロジェクトの目的は、関西地域の食品製造会社で発生する食品加工廃棄物から、その目的によって、有用成分である生理活性物質(大豆イソフラボン、カテキン類、カプサイシン等)を抽出分離・回収することにより機能性食品、栄養補助食品、特定保健用食品として有効利用し、最終的な食物繊維残渣からエタノールを連続生産する技術(バイオマス技術)を開発することによって、食品製造工程のゼロエミッション化を達成することである。」

食事の外部化が進み、食品産業・加工業や外食産業が栄えれば、当然、食品廃棄物の再利用
は不可欠の社会的再生産過程に組み込まれる。それ自体は、生産の迂回化であり、
それによって産業は栄える。それは本来的な意味での進歩といえるのか?
科学として、確かに「先端的」技術には相違ないとして、機能性食品、栄養補助食品、特定保健
用食品などの氾濫が、果たして食生活の進歩といえるのか?

参考記事:
○食品廃棄の現状について(pdf、参照
環境省、農水省の資料を使って、図表・グラフで、食品廃棄物の現状、
再利用、廃棄の理由など、視覚的に分かりやすくまとめている。
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by agsanissi | 2008-02-12 09:09 | 考える&学ぶ
2008年 02月 11日

宮本常一の目

宮本常一の【忘れられた日本人】を始めて読んだのは、もう半世紀位前になるだろうか。
人、というか巷に生きる名もなき人、要するに庶民を見る目の温かさが妙に印象に残っている。
同じ民俗学といっても柳田国男と宮本常一との間には、僕の僻目の可能性もあるが(自分で
云うのも何だが、僕は何事にも先入観は皆無というほどに持たないが)、この眼差しの温かさ
という点で落差がある。
以来、深い関心を持ってはいるが、実際には雑誌【旅と民俗】の文とか新聞記事のほかは、
単行本としては塩の道日本文化の形成を読んだくらいなものだ。

信州地湧仙人さんのコメント(08/02/08)に触発されて、改めて著作集12巻所収の「村の
崩壊」を読んでみた。幾つかの新聞記事をまとめたもので、「村の崩壊」というテーマの論文
というわけではない。すべて40年程前のものだ。
ちょっと面白いなと思った片言隻語をランダムに拾ってみると
・私は政治は哲学であり、政治家は哲人でなければならないと思っている。しかし日本には哲人
政治家は生まれにくい。その吐く言葉が、人の心にとまり民衆の眼を開かせるような人が大臣と
して戦後何人でたであろうか。
・仮に平野地方で少数の大農・中農経営者が現れる日が来たとしても、耕地の大半は山地に
あって、そこに根本的な対策が立てられない限りは、農村過疎化の問題は解決せられるもの
ではないのであるから、過疎はいよいよ進んでゆくであろう。そしてそこが良い票田でなくなると
政治屋はいよいよ振り向かなくなる。農業人口の減少傾向を悪いというのではない。そのことに
よって起こってくる人間疎外が恐ろしいのである。
・農家の蓄積もどうやらかなり増大しつつあるようであるが、企業農業のための資本化は
進んでいない。その大半が脱農のために投下されている。それが都市の膨張を促している。
・ついに米の作付け制限が問題化されるにいたった。来るものが来たという感じがする。そのこ
とによって日本の隅々まで人を住まわせ、そこが必ずしも生活最適の地でなくとも人はそこに
住み、住めば都と云わしめるまでの土にしてきたのであった。
・人を土から引き離すことが、人間自体にとってしあわせになるものであるか否かは、まだ
はっきり云いきることは出来ないであろうが、自然が人間をはぐくんで来る中に、人は本当の
人間性を保持できるのではなかろうか。

この12巻を読んでの思いだが、僕の農村を見る眼は歪んではいないだろうか。百姓を始めて
丸13年になるけれど、住んでいるところは農村とはいえない。村の産業の八割は漁業に依存
し、残りの二割以下が農業だ。センサス統計では農家数は二百数十戸ということになっている
が、販売農家は数十戸、農業で生活しているいわゆる専業農家は数戸ではないか。居住地と
畑が全く別の場所にあり、いわゆる農村共同体(または集落)のようなものは、僕のところには
ない。
だから、半分は都会人の目で農業を観察しているかもしれないなという感想を、この本を読み
ながら抱いた。それが必ずしも悪いというわけではない。より客観的に見れるかも知れない。
しかし農村というものを、戦前からその変化を見続けてきた目から見た眼と、90年代以降外部
から突然やってきて、十数町歩の畑作経営をやっているものの眼とでは、自ずから違いがある
のではないか。
もう今年は、宮本常一著作集全22巻を改めて読んでいる余裕はなくなったけれど、ぼちぼち
読みながら、日本に農業はいらないか土を考える食料自給を考える、などで書いてきたこと
を、宮本さんの目を借りて熟考してみたくなった。
追記:調べ直したら、これが50巻ほどあるんだな!新刊はないし、古本はべらぼうに高いし、
来年までお預けだ)
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by agsanissi | 2008-02-11 12:31 | 考える&学ぶ
2008年 02月 10日

食生活の崩壊

東京農業大学の小泉武夫氏は、01年に【食の堕落と日本人】/東洋経済新報社とい
う本を書いて、食の乱れは社会生活の乱れ、ひいては民族の存亡に係ると警鐘を
鳴らしている(多少、紹介しようかと思ったが、話が長引きそうなので後回し)。

いつから、日本の家庭の食生活は手抜き料理に溺れ、出来合いの加工食品やまがい
物食品・冷凍食品に占領されてしまったのか?

統計局HPの家計調査から、都市階級・地方・都道府県庁所在市別 (勤労世帯)の
「1世帯当たり年平均1か月間の収入と支出」(参照)を見ると、07/02/13公表の
食料支出の内訳が伺える。

この家計調査によると、平成18年度の月平均の全都市勤労者世帯の
消費支出総額は32.1万円、その内食料費は7.0万円に相当する。この内、どの程度
を加工食品・冷凍食品、或いは外食産業に費やしているか?
一口に「加工食品」といっても、様々なレベルのものがあり、納豆・豆腐なども
加工品なら、最近急増している冷凍野菜・冷凍食品も加工品。だから、単に加工品
の割合だけから家庭の食卓の姿が変わってしまったかどうか、もち論、正確には分
からない。こういった留保はあるが、ともかく加工品の類の内訳を見てみよう。
加工品12817円(調理済食品8556、)、菓子類9931円、一般外食12779円(学校給食
を除く)、以上の合計が35527円(50.5%)、これに飲料・酒類6931円を加えると
食料費の60%を占めている。一方、いわゆる主食の穀類は6440円、生鮮野菜5124円
を占めるに過ぎない。一般外食の何割かは穀類が占めているから、これより多少は
多いとしても高が知れている。

これをマクロ的に見るには、二通りの統計調査がある。
一つは、農水省データを元にしたもので、「わが国食料市場をめぐる環境変化」
(04/09、pdf、参照)の中の二頁目「食と生産・消費のフローチャート」(2000)
で、飲食料最終消費額80兆円に対して外食産業23.7兆円で、29.6%を占めている。

二つ目は、日本フードサービスの「外食産業データハンドブック」(参照)で、
外食産業の市場規模は75年の8.6兆円から91年27兆円まで急増、その後は漸増して
97年に29兆円とピークを打った後、2000年は27兆円、最近は24兆円規模で推移して
いる。同データに、食の外部化率=(広義の外食産業市場規模)÷(年間の食料・
食品支出額)の統計が出ている(1975-05)。
75年の28.5%から90年にかけて41.2%に急増した後、41、2%台で推移している。
2000年の外食市場規模27兆円と外部化率41%から逆算すると00年の食料・食品支出
総額は約66兆円、農水省データとの差額14兆円は何なのか分からない。
追記:農林水産省「食品産業における現状と課題(平成18年3月) 」によると、農・漁業
12.3、食品製造業37.1、外食産業22.9兆円で、合計72.3兆円とやや近い数字。この
程度の差だと、統計の取り方の違いや誤差の範囲か。参照、pdf)

また、都市勤労者世帯の食料支出のうち一般外食費の割合が二割以下なのに対して、
マクロ的には外食産業の市場規模が3-4割以上を占めているのは何故なのか?
飲料・酒類の扱い方、或いは会社などの交際費的な支出などが考えられるが、多す
ぎるのでは?

ともあれ、1975年から90年頃にかけて、すなわち経済のバブル化に伴って、日本人
の摂食パターンが急速に変わり(正確には家計調査を検討しなければならないが)、
かつバブル崩壊後も元に戻らなかったことが推測される。

一方、加工食品への依存度が長期的にどう変わって来たか、品目別家計調査の昔の
統計が見当たらないので分からない。ただ加工食品の中でも冷凍食品の割合が急増
しているので、フライなどの揚げ物類や調理済食品の割合が増加していることが伺
われる。
日本冷凍食品協会の「冷凍食品統計データ」(参照)を見ると、
冷凍食品の消費量は、1975年に38万トン、一人当たり年間消費量は3.4キロ、この内
輸入量の占める割合は6.6%だった。これが1990年には133万トン、10.8キロ、23%、
2005年には262万トン、20.5キロ、41%に増加した。
しかも輸入冷凍食品うち中国の占める割合は、1997年には45.6%だったが、06年に
は63.6%が中国産だ。中国産冷凍食品の品物をランダムに拾ってみると、えびフライ、
いかフライ、いかリングフライ、かきフライ、あじフライ、白身魚フライ、トンカツ、チキンカツ、
棒ヒレカツ、鶏唐揚、いか唐揚、かれい唐揚、かき揚、れんこん挟み揚、ハンバーグ、
春巻、たこ焼、お好み焼、練製品、焼鳥、北京ダック、カップ惣菜、魚加工品、飲茶、
ロールキャベツ、角煮、大肉包、小松菜炒め煮、いんげん肉巻、きんちゃく、湯葉、
中華丼の具、さば塩焼、さば照焼、中華串、豚ごぼう焼、豚すき、丼の具、飲茶類、タルト、
まんじゅう...etc。

また国内生産量だけで見ると、業務用冷凍食品は97年をピークに減少しているが、
家庭用冷凍食品は一貫して増加し続けている。これは業務用冷凍食品そのものが頭打
ちなのか、海外に生産拠点を移しているためなのか分からないが、何れにせよ家庭の
料理離れ・手抜き料理(こんなものは料理以前)は歴然としている。
ある禅僧の言葉、人間は所詮たんなる糞袋、その境地に達したか?!
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by agsanissi | 2008-02-10 07:02 | 考える&学ぶ
2008年 02月 07日

食料自給を考える/一応はまとめ/21

食料自給率の問題を考える際にポイントとなる点は、
1.現在の社会システムおよび産業システムの中で、農業をどのように位置づけるか
2.自然環境または風土的環境の中で、農業をどのように位置づけるか
3.国民の栄養および健康を確保するために、「食の供給」をどのように位置づけるか
取り敢えず、僕の頭に浮かぶのはこんなものだろうか?

必ずしも厳密ではないけれど、食料自給と食料自給率とは分けて考えており、僕が
扱っているのは「自給問題」だ。国民国家を単位とした「自給率問題」と食料を自給
する問題は自ずから違うという意識があるからだ。簡単に云えば、日本の自給率が
どうであろうと僕自身の自給率はきわめて高い。百姓だから当然と思うかもしれない
が、生涯を通して食堂に入った回数や出来合いの加工食品・インスタント食品、缶
ジュースの類を利用した回数を数えられるくらい少ない。
逆に今どき、百姓だって、自分の作物は単なる「商品」で自給率は都会人並みという
のだって珍しくない。

一方、自給率問題となると、政策なり国家戦略なりが対象になる。
昔、中江兆民が「日本人には哲学がない」と喝破したことがあるけれど(空海とか、
道元、安藤昌益のような例外はいるが)、似たような意味で、戦術思想には長けてい
るけれど、戦略思想は希薄だ。軍事力だって、他人に委ねて経済成長に特化しようと
考える国だもの、食料くらい、米国であれ中国であれ他人に委ねる位、屁の河童だ。

昔、農は国の礎だった。事実としてそうであれば、言い換えれば、単なる思想として
ではなく日常生活の中に息づいている時代には、先に挙げた三点(これで全部かどう
か、取敢えず僕の頭に浮かぶことだ)は考えるにも及ばない。こんなことを、考える
こと自体、農業が「選択」対象になったということだ。
となれば「農のあり方」は、戦略思想と不可分であり、仮に産業としての農業が日本
の国土から消え去ったにしても、一億程度の国民が生きていくには、全く支障がない
と豪語する功利的計算に長けた経済人さえ輩出する始末だ。

事実、国内総生産額503兆円に対して農業総生産額は4.8兆円と1%に満たない。様々
な農業補助金を除けば実質生産額はゼロだという指摘さえ受けている(参照)。
一方、労働人口から見ると、総就業人口6400万に対して312万と約5%を占めている。
また耕地面積は465万ha、従って、極めて大雑把な計算をすると農業労働一人当たり
1.5haの耕地を利用して、年間154万円の農業生産を行っているが、そこから直接・
間接の農業補助金を除くと実質生産額は50-100万円程度、或いはそれ以下といって
良いだろうか(農地売却を考慮すると、実質、ゼロまたはマイナスの可能性もある
が、これをマクロ的に分析したものを僕は知らない)。しかも農業労働人口は高齢化
する一方で、若返りの兆候はない。会社四季報をパラパラとめくって見れば分かるが、
成長産業は就労者の平均年齢は若返り、斜陽産業は高齢化する。農業は斜陽産業
どころか、「産業」としては既に死に体だと宣告されている。安楽死なり尊厳死を要求する
有識者も少なくない。
これに対して、「単なる」産業ではないという屁の様な反論もあるが、如何にも頼りない。

仮に「農政」に注目して、農林水産予算と農業の国内総生産額とを比較すると農林水産
予算は1960年度の1319億円から75年度には2兆円台に乗り、80年代以降3兆円台
を確保している。しかし、農業の国内総生産は60年度の1.5兆円(経済全体の9%)から
80年度6兆円(同2.4%)02年度には5兆3000億円(同1%)に低下した。60年度の農業
予算は11倍の国内総生産を生んだのに、今日では1.8倍の国内総生産しか生まなくなって
いる。「高い水準の農業予算を維持しても農業は衰退した」(参照)という指摘を受けている。
ちなみに平成17年度のそれは1.6倍に過ぎない。
何のため、誰のための農業予算だ??

しかし、このような結果は、よってたかってそのような扱いを押し付けてきたからそうなった
だけで、日本における産業発展の宿命的結果というわけでもあるまい。
いままで僕が書いてきたことは、要するに、「よってたかって」の諸要素をいろいろ思いつく
ままに取り上げたということか。
研究者によって、何が決定的要因だとか、主要な要因だとか書いているけれど、
まあ、それは自分の研究題目や立場とかその他諸々の要因で書いていることで、何か一つ
の決定的要因だけで歴史的・社会的傾向が決まってしまうことは有り得ないと云うのが僕の
考えだ。
敢えて(まさに敢えて)云えば、豊かな自然に恵まれた狭隘な国土に多数の人口を抱えた
ということか。
・米に偏重した高米価政策によって零細兼業農家が癌のように蔓延っていることが
農業の低生産性を温存し、農業の衰退を招いたという意見がある。歴史の一断面を
切り取ってくれば、その意見も尤もに見える。しかしある時代には、食糧増産と農家
救済のために、それが不可欠な時代があった。条件が変わっても、それを続ける農政
も変だが、生産コストとの関係では「高米価」とは云えない条件を無視して「温存」を
唱える研究者も阿呆だ。
・食料自給論やら水田農地の社会的機能を声高に論じながら、足元から優良農地が
消えていく事態(自然消滅しているわけではないぞ)に、形式的規制だけをかけて、
裏では一体になって農地資産を食い潰して個人的・社会的に富を築いてきた連中の
「政治的力学」に目と口をつぶっている欺瞞と卑しさは計り知れない(こんなことを書い
ている僕だって、農地を持っており、金に困れば売り払っているかもしれないという危う
さが人間にはある)。
・グローバリズムの軍門に下り、国内農業市場を明け渡してきた農政の従属的姿勢を
批判し、「食料主権」を確立することこそ21世紀の農政課題だと論じて見たところで、
足元の農地と農業者が消えてしまっては話にならない。
・自分の胃袋さえ、機械的工業生産の一工程にまで貶めておきながら、「食の安全・
安心」を声高に要求する人々の無責任のおぞましさは、呆れて見詰めるほかはない。

こんなことを繰り返しても仕方ない。夫々の時代の社会的諸要因に応じた政策と対応
が凝縮して、何らかの比率で作用・反作用を及ぼしあって、現在我々が見る姿を現出
した。「よってたかってそのような扱いを押し付けてきた」とは、そういう意味だ。

どうすれば良い?
そんなことは分からない。国民の何割かが実際に飢える体験でもしなければ分から
ないのじゃないか、と思っている。まあ、僕としては何度も書くけれど
人生の後半生に入って、あえて百姓という生き方を選んだのは、戦後社会を支えて
きた、こういう考え方に対するアンチテーゼだ。もう、そんな生き方は行き詰った
という、僕自身の生き方を賭けたささやかな狼煙だ。
参照
というしかない。誰も、そんな狼煙に気付かなくても、それは仕方ない。

中途半端や尻切れトンボもあるけれど、取敢えず「食料自給を考える」は、これで
お仕舞いにする。また何かに触発されれば書き始めるかも知れない。
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by agsanissi | 2008-02-07 08:26 | 考える&学ぶ
2008年 02月 06日

食料自給を考える/食生活の崩壊/20

「食は生を養う」というのは、単に空腹を満たし、身体を養うのみならず、人間の生活文化全体
を養う根源が食生活にあると考えるのが良いのではないか。この点を説得的に展開するには、
どのような論点があるか考えているが、中々、まとまらない。
まずは、今までに僕が書いてきたことの中から関係する論点を挙げておく。

▽07/08/01「土を考える/一物全体食/14」(参照
我々の食事が「一物全体食」から、正反対の方向に向かっていることだ。イミテーション食材は
云うに及ばず、加工食品の氾濫、外食産業への依存、輸入食材の氾濫、これらすべての事情
が「一物全体食」を、益々困難にする方向に向かってひた走っている。挙句の果ては「食べる
こと」を抜いたり、ダイエットのために食べるかに錯覚したり、逆に「食べること」自体が厭わしい
という摂食障害のような倒錯現象まで引き起こすに至っている。

▽07/10/22「食と農を考える/覚書」(参照
「腸内細菌叢(腸内フローラ)と免疫力」に関連して書いた、
食は風土によって支配され、人間の「食」は風土と不可分の関係にあるにもかかわらず、
社会システムが進化するほど、この関係は乖離していく矛盾。すなわち、
何を「食」とするかは、風土と社会システムで規定され、未開社会ほどより強く風土に支配され、
文明が高度化するほど社会システムに規定されます。この場合、社会システムとは狩猟採集・
農耕文明から最近のグローバル化や農業政策・貿易交渉、更にはスーパーマーケットの
支配、商業主義、ダイエット願望、テレビ文化の氾濫、栄養学・保健医学などの科学まで(要す
るに人間の摂食行動を直接・間接に規制する社会的・意識的内容)含む、言い換えれば自然
風土を除く全部と云ってもよいほど広範な(広範すぎる)概念として使っています。

▽07/10/26「生活習慣病/覚書」(参照
人間及び動物は、無機元素から栄養分を取り出すことは出来ない。植物及び他の動物を
摂取して自己の身体を作る(同化)と共にエネルギーを取り出している(異化)。同化・異化を
まとめて代謝という。代謝を司る器官と代謝の機能は、数百万年というタイムスケールの所産
である。その結果、人間の身体は「飢餓」状態に対しては幾重もの防禦システムが作動する
が、この僅か数十年の社会システムの変容によって生み出された「飽食」には対処するシス
テムの備えがない。この意味では、生活習慣病とは風土と歴史的伝統によって培われた人間
の身体のシステムと社会システムの変容によって突然現出した食生活習慣とが本質的に相容
れなくなった現象だ、と僕は理解している。
以上が、現在まで、考えているところだ。

以下は「食生活の乱れは社会生活の乱れ」と説いている東京農業大学の小泉武夫氏の講演
を参考に挙げておく(pdf、参照)。
▽(日本の食料自給率は下がる一方で、このまま下がり続けて20 %台になったら、日本人
は相当餓死すると思います。あと10年くらいでそうなるかもしれませんと書いた後)
餓死にいたらなくても危険な兆候は出ています。若い人たちの間で「クローン病」という病気が
発生しています。10 年前には全くなかった病気で,直腸や大腸に潰瘍ができて、そのうち
潰瘍部分に穴が開いてしまいます。そこからうみや血液が出て急性腹膜炎を起こし、死にいた
ります。現在、2万人くらいの患者がいると言われています。病気になる人が若い人ばかりとい
うことで調査したところ,原因は食べ物によるものだとわかりました。急激な食生活の変化に
よるものです。毎日のようにハンバーグ、フライドチキン、ホットドッグ、インスタントラーメン、
スナック菓子といったファーストフード、コンビニ弁当を食べている若者に多く発症が見られると
のことです。
◆クローン病について(参照

▽また、18 歳から25 歳までの成年男子の精液の中の精子の数が減ってきています。昭和
40 年代には1億1500 万くらいあったのが、平成13 年になると約8000 万前後に激減して
いると言われています。これがあと10 年くらいして5000 万まで減ってしまうと受精能力がなく
なり、日本民族は滅びてしまうのではないかと懸念されています。
◆精子の減少(参照

▽今、日本人は世界一、心の荒れた、情緒不安定な民族になってしまいました。若者に注意
するのも、すぐ「切れる」ので命がけというありさまです。
なぜこうなってしまったのでしょう。初めはストレスによるものだとか、環境の変化が原因だとか言われたのですが、よく調べていくと、大きな要因の一つは食べ物に由来しているだろうとわかってきました。日本人の食生活が急激に変化して、肉を多く食べるようになりました。動物を見
ても肉食性の動物と草食性の動物では、性格が全く違います。攻撃的なのは肉食性の動物です。
◆この手の、単純な二元的対立論には同意できない。

▽日本人を日本民族の遺伝子レベルで考えてみると、今のような肉食には向いていないので
す。日本人としての顔立ちが似ている、赤ちゃんが生まれると青いあざの蒙古斑ができる。これ
は民族の遺伝子によるものです。日本人を解剖学的に見てみると、アングロサクソンやゲルマ
ンに比べて腸が長い。お酒についても、お酒を飲むと肝臓で分解するわけですが、日本人の
場合、アルコール脱水素酵素によって分解しています。ところが、アングロサクソンやゲルマン
は、その酵素のほかにも日本人にはないMEOS系の酵素が加わるのでお酒に強いのです。
民族に遺伝子的特徴がそなわるのは3000 年くらいのスパンです。その土地ではぐくまれた
食べ物によって遺伝子的特徴がそなわり、食文化がつくられます。
それなのに、日本人は、ここ30 年の間に食べ物のとりかたが激変しました。肉の消費量は
3.2 倍、油は3.7 倍です。でんぷん質中心の日本人が、30 年の間に突如として窒素が多く
なり、カロリーや油分が多くなった。日本の若者たちが狂ってくるのは遺伝子が対応できない
からなんだと思います。
◆果たして、食文化の違いを遺伝子レベルの話にまで持っていけるのかどうか、風土・食・
人間の身体の内的関係を、どの程度までつなげて考えられるのか、どういう研究がされて
いるのか、僕には分からない。

▽こういうところを見ると、私は、日本の食生活は堕落したと思うのです。人は、食生活が乱れる
と体調も崩れます。それと同じように、国民の食の周辺が乱れてくると、その国の社会も崩れて
きます。食生活の乱れが社会の乱れにつながっている、それが今の日本の現状です。

▽世界的な潮流としてアメリカが中心となったグローバリゼーションという動きがありますが、
日本にとってはこれは間違いで、ローカリゼーションをまずやるべきです。
「安心、安全でおいしい食べ物」は自分たちでつくって食べなければだめだ、そのためには農業
を後継する若い人たちをつくらなければだめだ、ということを私はいろいろなところで訴えており
ます。
ローカリゼーションの推進という意味では日本食の良さを再認識するべきです。私たちは栄養
学や食文化論という分野を研究していますが、外国人が決まって言います。日本食というの
は、朝はみそ汁と納豆とご飯と漬け物、お昼はサバのみそ煮定食、夜は刺身とご飯とみそ汁と
大根おろしと、そんなものだと。

◆食料自給率の低下や食生活の乱れで、10数年で日本人が大勢、餓死するとか、民族が
滅んでしまうと、本気で懸念しているのかどうか知らないが、高校生相手の講演にしても、話を
漫画的に単純化しているのじゃないか。
但し、食生活の乱れが、生活文化の乱れ、社会的な乱れの大きな要因になりうるという話の
大筋は、同意できる。小泉氏は【食の堕落と日本人】/東洋経済新報社/2001年6月という本
を出しているが、注目すべき点があれば、後日、摘記を作る。
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by agsanissi | 2008-02-06 11:26 | 考える&学ぶ
2008年 02月 03日

食料自給を考える/デフレ時代の農業・農村/19

続き、
▽グローバリゼーションをどう受け止める?
・我々が今直面しているデフレ時代は、戦時期に起源を持つ国民国家単位の行政主導体制が
80年代からのグローバリゼーションによって崩れて来た結果である。それはまた、基軸産業が
重厚長大な重化学工業から軽薄短小なIT産業に移行した結果でもある。国家が主導権を握っ
てインフラを整備する中央集権的な重化学工業の時代が終わり、社会を構成する個々人の欲
求の多様化に合わせて、国境や部門を越えた市場競争が展開されるダイナミックな社会変動
の時代の到来
である。
それはかつての国家的な安定していた総中流社会に比べると、リスクを伴う浮き沈みの激しい
時代になることは間違いない。その一方で、情報化を始めとする技術革新によって、距離と空
間における尺度が変化し、自然環境志向をはじめとする価値観の変化・多様化を通じて、都市
と農村との関係も大きく変わる
ことが予想される。
その意味でも、グローバリゼーションをただ農村にとっての脅威としてのみ捉え、過去の制度や
体制を守る姿勢に終始することは、却って地域を危機におとしめることになりかねない。39.p
◆この問題は、当然のことだけれど、簡単にあれこれと結論が出せる問題ではないし、仮に
「結論」を出したところでどうなるもんでもない。そもそもグローバリゼーションとは何か、という点
に限ってみても、単なる現象(或いは傾向)と捉えるか、何らかの新たな体制と捉えるか、必ず
しも明確ではない。まあ、脚注で簡単に言及して終わりに出来る問題でないことだけは明瞭。
日本語版【ウィキペディア】では、定義は示さず、「グローバリゼーションの徴候」として経済、
文化、政治、社会の多様な側面の地球規模化の「徴候」を指摘している。
12/16の「稲作農業」で触れたことのある「認識革命るいNETWORK」/「新しい農のかたち」の
記事「食糧自給率問題を考える」(参照)は、「池田信夫blog」の食料自給率なんてナンセンス
という主張に対して、幾つかのコメントを取り上げて、
・グローバリストの提灯記事のようで気分が悪くなりますが...
・WTOはアグリビジネスのロビイストによって牛耳られているので、市場主義者の急先鋒である
ことはミエミエです!

と、まあ悪罵を投げるだけで、生産的な議論はしていない。何ものをも飲み込み・踏み潰す勢い
の多国籍企業の席捲ぶりやアメリカの一国覇権主義(急速に翳りが見えてきたが)に、頭にくる
のは分かるが、それだけがグローバリズムの全体ではない。
評論家や学者は、グローバリゼーションで「農業恐慌」の危険が忍び寄るだとか、21世紀の
農政課題は主権国民国家の「食料自治権」を認め合うことだとか(【食料主権】/田代洋一/
1998)、空文句を唱えていればメシが食えるが、百姓は生き抜いていかなければ仕方ない。
容赦なく深化するグローバリゼーションに対応して、どう生き抜くかが課題だ。

▽インフレ時代に、規模拡大が進まなかったのは何故か?
高度成長に伴う地価高騰に求める見解が有力だが、イエ制度の足枷がストックとしての土地の
処分を躊躇わせたと、次のように分析する。
・(1955-85年の5年毎に第二種兼業農家の動態を、近畿、東北、北海道の三つの典型的
地域で比較すると)北海道では第二種農家自体が急速に減少していくのに対して、近畿・東北
でタイムラグを示しながら「恒常的勤務」の着実な増加である。つまり都府県の総兼業化の内実
は恒常的勤務の支配的増加に支えられたもの
である。20.p
・北海道だけは、挙家離村によって構造改革が進み専業農家率が維持され、第二種兼業農家
は減少した。(中略)これに対して都府県では、第二種兼業農家だけが増加して七割近くに達
し、農地は兼業農家に保持されたまま流動化が進まなかった。(このような北海道と都府県の
違いは)農地を先祖伝来の家産でありイエ存続の担保として維持しようとする農家のイエ意識
考えなければならない。
徳川時代から「農間余業」として支配的に見られた兼業化は、イエとしてムラに存続するための
対応形態であった。北海道では挙家離村が一般的であったのは、北海道農業が近世のムラ
社会を持たない植民地であるがゆえに、ムラの中でイエを維持存続させようとするイエ意識が
都府県の農家に対して希薄であった点に求められよう。126.p

20頁には、近畿・東北・北海道の1955-85年の5年毎の第二種兼業農家の増減表が載って
いるが、ここでは簡単に1960年と90年との比較を都府県・北海道別に載せておく。

                 都府県      北海道
農家数(千戸)     5823  2884  234  87
平均経営面積(ha)  0.77  1.15  3.54  11.9
専業(%)         33.7  15.0  50.4  47.0
第一種兼業        34.1  17.0  22.2  35.9
第二種兼業       32.2   68.0   27.4   17.1 (世界農林業センサスから)

▽日本農業の基本矛盾と兼業化の論理
・「農地に対して扶養人口が過大という基本矛盾」
イギリスのように海外進出と植民という道を閉ざされていた日本の小農家族にとって最大の
課題は、限られた農地で扶養人口の多い直系的家族をいかに扶養するかという基本問題で
あった。ここに、我が国のきわめて労働集約的な土地生産力中心の農業技術発展の方向も
軌道付けられた。しかも、たとえ小作農に転落したとしても、ムラの中でイエとして存続すること
が、水利・入会などの資源利用にとって不可欠である限り、イエの存続が小農家族にとって
最大の価値規範
であり、それがまた零細耕作を強固に維持する役割を果たしたのである。
そして、このような基本矛盾への小農家族の対応形態の一つが副業、兼業、出稼ぎなどの
「農間余業」であった。124.p
・兼業化という小農家族の対応形態を戦後の際立った現象と見る傾向があった。・・しかし
1938年のセンサス調査で・・・農業のみを営む専業農家はすでに五割を割って45.7%でしか
なかった。県別で見ても、福井の26.8%を最低として、岩手、石川、兵庫、和歌山、岐阜、
愛媛、広島、奈良、大阪、高知、徳島、、長崎、秋田などが40%以下である。125.p

◆ここで指摘していることは、ある時期まではその通りと思うし、今でも部分的には当て嵌まる
点もあるのではないかと思う。しかし、ある時期以降(60年代中頃かな?)、
一昨日言及した【日本の食と農】で神門氏が指摘している内容、
・営農規模の零細性や分散錯圃が農産物の生産コストを高めているとしばしば指摘されるが、
大多数を占める伝統的零細農家の関心は農業ではない。転用期待こそが農地を保有する本
当の理由である。
・分散錯圃を日本農村の歴史的遺産とみなし、農地流動化の遅れを歴史的に宿命づけられた
ものであるかに論じられることがあるが、それは欺瞞である。いくら歴史的なものでも経済的
インセンティブがなければ、人々はそれを簡単に捨て去ってしまう

零細農家の多くは非農業所得への依存度が大きく、農業の収益のいかんには余り関心が
ない
。それよりも、票田としての農村集落を維持したほうが、転用許可や公共事業の誘導には
有利である。
・農水省も、このような政治家と零細農家のもたれ合いに便乗する。
・零細農家-政治家-農水省にとっての最高のシナリオは、農水省の予算で農地の改良投資
を行い優良農地にして、その後、転用して農家の懐を暖めることである。農水省の農地改良
投資によって、農業生産性が上がる以上に転用価値が上がることは農家の常識である。....
さらにこれに便乗するのが土建会社である。

のほうが、事実に即しているのではないか(ここで云う零細農家と兼業農家は、かなりの程度
までダブっていると見てよいのかな)。
最近では、デフレ経済の中で、この経済的インセンティブも相当後退した可能性がある。いずれ
にせよ、兼業農家が根強く残っている要因は、高米価政策や農政の失敗などに矮小化できる
ほど単純な問題ではないことは明らか。日本の社会システム、高度経済成長の下での村社会
の変容、土地制度、農地をめぐる”ドロドロ”の政治力学など広範な問題を考慮しなければなら
ない。「食料自給を考える」範囲を遥かに逸脱しているし、僕には、そんな能力は今はない。
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by agsanissi | 2008-02-03 11:50 | 考える&学ぶ
2008年 02月 01日

閑話休題/食と農のドロドロ

実は、今日は昨日の「続き」を書くはずだった。というより、殆ど書いてしまって、
長過ぎるので半分にして前半だけを載せた。

後半を、やや手直して載せるつもりだったが、国民生活センターのメール便を
読んでいるうちに、”ギョウザ事件”の異常さに呆れてしまって、方針変更。
(岩手に居れば、新聞もテレビもないから、こんな雑音は入ってこないし、ネット
やメールだけでは、その異常さは伝わりにくいから、全然、見向きもしなかった
かも知れないけれど、テレビや新聞のお蔭でアンプリファイされているかな?)

「手軽さ」を求める消費者の本音を衝いた引用をしたけれど、さらに考えてみれば、
胃袋を満たすという本能的な行為さえ、工場生産という機械化されたプロセスの
一部といってよいほどの延長上にあるという異常さが事の本質
ではないかと思う。

ジョージ・リッツアの【マクドナルド化する社会】を読もうと思って、机の脇に積んだ
ままになっているけれど、予想では素材の原料肉の製造からマクドナルドの製品
として消費者の口に入るまでの全行程、販売店員の口調までも含めての全行程
を、徹底的に簡素化し、マニュアル化し、合理化した社会のモデルを描き出して
いるのだろう。
”ギョウザ事件”を見ると、日本人の胃袋のかなりの部分も、このマニュアル化した
工場生産の延長上にある
と見てよい。自分でやることといえば、チンするだけ。
だから、食の安全・安心を問題にするなら、本当は、超マニュアル化した社会、それ
を可能にしているグローバル化した多国籍企業の支配を拒否するしかないのだ。
その支配力は目も眩むばかりに巨大で・強大だけれど、消費者がそんなマニュアル
化され、均一化された食材を拒否して、文字通りの手作りに徹すれば、一夜で崩壊
してしまう脆さも内包している。
尤も、そうすれば今日の産業社会の繁栄の三分の一以上は消えてしまうけどね。
僕の考えでは、地球環境問題の大部分はそれで解決するけれど、肥満の根源にある
贅沢病はそのままで(遺伝的なインシュリンの機能障害は別にして)、糖尿病だけは
避けたいという身勝手さだもの、お話にならないね!!

本当は、こんなことを書くつもりじゃなかったけれど、閑話休題の気軽さで脇き道に
話が逸れてしまった。

後半の議論は、兼業農家がなぜ根強く残っているかという話題が中心だ。
【グローバリゼーションと日本農業の基層構造】の玉氏の意見では、ムラ・イエという
江戸時代以来の日本独特の共同体的な縛りが、離農・土地の売却、農地の集積を
阻んできた要因だというものだ。感覚的には10-20%程度は、その種の要因もある
かなというのが、僕の意見だ。
ところで、さっき言及した【日本の食と農】の第四章、五章のテーマは「農地と政治」で
農地をめぐる”ドロドロ”の政治力学」221.pを扱っている。零細農家、JA、JAの後ろ
にいる農林族議員、農水省、土建業界の一体となった政治力学を扱っている。
これを読んでみると、ゾーニングの曖昧さとか、農地価格の異常高とか、日本独特な
共同体的縛りとかの、そんなきれい事の議論では、到底済まされないことが分かる。
神門氏は「日本では土地がらみのことに下手に首を突っ込むと、身の危険にさらされ
かねない
」128.pと書いているけれど、先に進むのはここでの議論を熟考してからだ。
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by agsanissi | 2008-02-01 09:27 | 考える&学ぶ
2008年 01月 31日

食料自給を考える/デフレ時代の農業・農村/18

第11回で触れた【グローバリゼーションと日本農業の基層構造】は、ユニークな本だ。
どういう点で、ユニークか?
・農村・農家、或いはムラ・イエを、単なる過去の遺物(家父長的・前近代的)とは捉えない。
日本の風土と歴史の中で育まれた独特な共同体として捉え直す(⇒「江戸時代にイエとムラ
という形で制度化された地域資源の管理と利用の集団的システム」29.p)。
・更に、ムラ・イエは、グローバリゼーションによって、「国家が後退」する時代の地域の生活と
生産を再生する場であると提唱する(⇒「デフレ時代に必要な問題提起は、むしろ地域の生活
と生産の見直しによる農家レベル、消費者レベルの自給、地域レベルの自給であって、退場
しつつある国家ではない」39.p)。
◆イエとムラを、「地域資源の管理と利用の集団的システム」として捉え直そうと云う視点は
興味深い。二点、疑問を持つ。「過去の遺物」という側面は、やはり拭えないのではないか。
二面性を持つという捉え方が実態に即しているのではないかという疑問。しかし70-80年代
以降、急速に解体し、退場しつつある国家に代わって地域レベルの生活と生産の再生の場
として機能しうるだけの実体があるのかという疑問。イエ、ムラを片仮名にする意味は何?

・80年代にインフレ時代からデフレ時代に転換(⇒「90年代からの長いデフレは、グローバリ
ゼーションの一面だ」75.p)したとの基本認識に立って、デフレ時代における農業・農村・農家
の、自立した独自の生き方を提唱する。その中で、特に兼業農家に焦点をあて、兼業農家は
消え行くべきものではなく、日本の農村の独特な基層構造をなすものと捉える。
・またグローバリゼーションを、農村にとっての脅威とのみ捉えず、国や自民党政治に頼らず、
独自に自立した生活を支える新たな可能性を広げるものと捉える(⇒「IT革命を柱とするグロー
バリゼーションを通じて、自民党の先生や農業補助金以外に村を支えてくれる住民たちとダイレ
クトにつながる可能性が広がってきていることを認識する必要がある」39.p)。
◆高米価政策が「兼業農家」が根強く残った主因だとする浅薄さに較べれば、遥かに実態に
即した捉え方とは思うが、日本の農村の「基層構造をなす」とまで云えるかどうかには疑問が
ある。一方、グローバリゼーションについての捉え方は、全面的に賛成だ。これはグローバリ
ゼーションに賛成か、反対かという問題ではない。歴史的に不可避的な過程として捉えた上で
どう対処していくかという問題だ。「忍び寄る農村恐慌」を煽り立て、グローバリゼーションによっ
て、農村は壊滅的打撃を受けるかの主張は、数十年前の左翼の万年「全般的危機論」の焼き
直しに過ぎない。

以上は、基本的認識。以下、例によって簡単な摘記を作っておく。
▽インフレ期の農政の特徴は(戦前期を含めて)、
・都市への食料供給を増やすための増産政策=農業近代化政策に集中するところに特徴が
ある。インフレ期の農業政策を、一言で特徴づけるなら「行け行けドンドン」である。34.p
・戦後の高度経済成長期は、旧農業基本法の選択的拡大政策である。構造改善事業という
名の土木事業、補助金、価格支持、融資、機械・設備補助、試験場技術などなど、増産政策の
すべてが大都市における食料品物価抑制のために投入された。結果として、コメをはじめ果樹
や牛乳など「選択された」品目は1980年代には見事に過剰となった。アメリカの圧力による
農産物輸入の増加も見逃せないが。35.p

▽戦後農政の「型」創出
・1942年に成立した食糧管理法による米麦の国家管理こそ「戦後農政」の機軸であった。
1937年の日中戦争開始以後、日本は高度成長期と同様に「重化学工業化」、「都市化」「イン
フレ」が進行していた。そこで政府は、農家に増産と供出を促すために奨励金・補助金などの
名目で買上価格を引き上げ、一方、インフレ抑制と家計安定のために消費者米価は据え置い
た。これが生産者米価の方が消費者米価よりも高い逆ザヤ価格体系の始まりである。57.p
・1970年から、米価抑制を柱とする総合農政が展開された。これは「工業部門で発展してきて
いる装置化とシステム化の動きを農業部門に導入し、大量生産、大量出荷によって農業の飛躍
的進歩」を目指すものであった。ポイントは大胆な経営規模拡大を農政の柱に据えたことで
ある。61.p
◆戦後農政の「型」創出の起源を、40年代の戦時体制の下での国家管理政策に求める考え
は、特に独創的というわけではないが、基本的に正しい。

▽デフレ時代の農業・農村・農家
・今の農村で起こっていることを一言で特徴づけるなら、それは全般的なデフレ現象である。
一つは、農産物価格の下落と農業の所得の減少であって、米を始めとして過剰基調にある
作物の価格は需給をダイレクトに反映して大幅に下落し、とりわけ専業農家の家計を直撃して
いる。その背景に、1980年代以来の農業政策をめぐる世界的な自由化の動きがあることは
云うまでもない。37.p
・デフレ時代に必要な問題提起は、地域の生活と生産の見直しによる農家レベル、消費者レベ
ルの自給、地域レベルの自給であって、退場しつつある国家ではない。39.p
・近代以降、日本の農業・農村・農家は何度も深刻なデフレを経験してきた。その時々の対応策
は、いつも基本的に同じであった。第一に、農業だけではなく、地域の諸々の実業を総合的に
捉え、第二に、その調査・点検によって、利用可能な資源を発掘し、第三に、地域全体の総合
的な振興計画を農家レベル・集落レベルから積み上げて作ることである。その際、第四に、出来
る限り自給して、現金支出を農家でも地域でも抑え、倹約と勤労の小さな合理化、工夫を積み
上げること、そして第五に、一番重要なことは、依存意識を廃して自力更生の精神を鼓舞するこ
とである。85-6.p
・今の農業・農村・農家にとって最も必要なことは、工業を追いかけて壊してきてしまった農業
のあり方を農の原理に引き戻すことである。とりわけ、家畜を生き物扱いしていない畜産はそう
である。但し、それは直ちに有機農業を意味しているのではない。「農薬の助けを借りたほうが
良いこともある。大切なのは、それを目のかたきにすることではなくて、化学肥料や農薬で自然
の営みと循環をぶちこわさない」ことである。だから大切なのは単なる食品の安全性や自然
環境ではなく、自然の営みと循環が維持されていく持続性の方であることを都市の生活者にも
伝えることである。
それは農法だけに限らない。農村の人付き合い、農家の暮らし方、子育ての仕方もそうである。
農村に暮らすことに劣等感を感じ、都市の消費依存の生活を真似していたとしたら、それを
真剣に反省して見る必要がある。87-8.p
◆ほぼ全面的に同意できる。
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by agsanissi | 2008-01-31 08:09 | 考える&学ぶ
2008年 01月 29日

食料自給を考える/食料の安全保障/17

前回の大雑把な計算では、四つの変数の比較から推測できる「変化」を指摘しただけで厳密な
議論ではない。一番の欠陥は、食糧充足率を考慮してないことで、例えば面積当りの人口扶養
力は充足率に応じて補正しなければならない。殊に第三期に食料自給率が急速に低下してい
るのだから、実際の人口扶養率は27.3人よりもっと低いし、第二期に比較して第三期の耕地
の利用効率の低下は、もっと著しい。
どういうことか?
国内の農地を、しかも優良農地から、転売し・切売りし、工場や宅地・道路などの都市的用途に
転用し(一方で、農地を切売りして儲ける都市近郊農家の”強欲”を非難する憂説があれば、
他方では農業に対する保護政策が地価高騰の真因だ論ずる珍説が盛んな時期があった)、
他方では多額の国費を投じて基盤整備して開発された地方の農耕地でさえ、最近では耕作者
もなく、耕作放棄され、荒れるにまかされている。
経済効率の悪い農業などに、土地・労働力・資本などを投下するのは、全くの無駄・資源の浪
費だ、高い農産物を消費者に押付ける、開発途上国の発展の道を閉ざすものだなどと論じて、
自国の農業を貶めてきた。こうして、ある意味では極限まで農耕地を荒廃させ、工業と金融で
稼いだ金で自国の農耕地だけでは、到底、充足し得ないまでに胃袋を肥大化させてしまった。
その結果がどんなものか、第13回で指摘した資料「今、我が国の食料事情はどうなっているか」(参照)の12頁を改めて、ジックリ見て頂きたい。
これは脚注にあるように、平成27年度における農地の見込み面積である450万haを前提に、
熱量効率を最大化した場合の試算(2,020kcal/日)だそうだ。
・「国内農地のみで私達の食事をまかなう場合」という想定そのものが、非現実的だと反論する
だろうか?
・それでは、自国の胃袋の充足の四分の三を、他国の農地に依存している現状を、いつまでも
続けられると想定することは、果たして現実的か?(同前の11頁参照)

加えて水だ。山下氏の前掲書から引用すると、
日本はまた食料・農産物の輸入を通じ輸出国の水(仮想水)を大量に消費している。総合地球
環境科学研究所の沖大幹助教授の研究によると、これは年間744億トンにのぼり、琵琶湖の
貯水量の約2.7倍、日本全国の年間使用量の約85%に相当する。農産物1トンを生産するの
に必要な水の量はトウモロコシ千トン、大豆2.4千トン、小麦粉2.9千トン、精米6千トン、鶏肉
4千トン、豚肉6.1千トン、牛肉22-25千トンである。このためわが国の牛肉などの輸入先で
あるアメリカからは427億トン、オーストラリアからは105億トンの水を食糧輸入により間接的
に輸入している
。73.p

土にせよ水にせよ、各国の輸出能力は、歴史的にはもう限界点に達していると見たほうが良い
だろう。一方、自慢の経済力が「世界経済の変化」に置いてきぼりを喰らい、もはや「一流では
ない」と自認するにいたって、将来にわたって自分の胃袋の充足を他国任せにしておいてよい
のだろうか?

最後に、山下氏前掲書から、幾つか面白い指摘を抜き出しておく。
農業改革はWTO・FTA交渉や産業界のためだけでなく、農業自身、さらには国民・消費者の
ためにこそ必要なのである。農業が衰退し食料生産が減少して困るのは農家ではなく消費者
だからである
。4.p
国防は国民に対するサービスの提供である。サービス貿易を自由化するのであれば、日本は
防衛力を持つのを止め、世界最高の優れた軍事力を持つアメリカに対価を払って国防という
サービスをすべて提供してもらうことが最も国民経済全体の厚生水準を向上させるはずである。
しかし、サービス貿易の最も熱心な自由化推進論者であってもそのような発想をする人はいない
。214.p
・「21世紀に向けてアメリカ農業をどうやって確実に繁栄させることができるだろうか。つまり、
これは国家安全保障の問題である。国家が国民を養うのに必要な食料を生産することはたい
せつなことである。自らの国民を養うのに充分な食料を生産できない国を想像できるだろうか
そのような国があるとすれば、国際的な圧力に従属する国、危機に瀕している国である」という
ブッシュ大統領の演説(01/07/27)を引用した上で、
危機に瀕している国とは日本のことを云ったのであろうか。215.p
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by agsanissi | 2008-01-29 08:48 | 考える&学ぶ