農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

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カテゴリ:考える&学ぶ( 81 )


2007年 10月 09日

無肥料栽培/参考記事

8.7/21.2度、日照6.9時間、このところ朝の冷え込みが順当になってきた。
谷間の木々にも、ポツポツと赤みを帯びた葉が散見され、全体にかすかに
色づき始めてきた。
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「現代農業」11月号に、《「無肥料栽培のりんご」はなぜ可能なのか?》という論考が掲載
されている。無肥料・無農薬の自然栽培を手掛ける青森県のりんご生産者の事例をもとに
自然栽培が科学的にどのような仕組みで無農薬、無肥料が成立しているか考察」している。

07/8/19 の「土を考える/無肥料栽培/16」に関連して、参考に、要点を紹介しておく。
1.窒素、リン酸、カリなど主要養分の収支関係
イ.窒素
自然栽培では、チッソはダイズなどのマメ科植物を植えて、マメ科植物の根粒菌による
空中チッソ固定作用を利用している

植え付け時の判断法は
・一株のダイズに根こぶが10個以下なら、その土壌はチッソが十分なので、次の作付には
マメ科植物は植えない。
・根こぶが30個以上なら、その土地にはチッソが不足しているから、次の作物にはまたマメ
科植物を植える。

ロ.リン酸
自然栽培ではリン酸は特に新たな成分を施していない。果樹の場合、葉は落葉となって
土に還り、分解してリン酸のような無機成分となり、作物に吸収される。こうしてその土地で
循環する

果実として、畑の外に持ち出されるリン酸成分の収支関係は(考え方や計算法は省略する)
りんごの根が、仮に5㍍伸びるとして、その土壌中のリン酸の蓄積量の概算値をもとに
一年に458グラム消費されても、(土壌中には)1万3100年分の蓄積がある」という。
ハ.カリ
カリについても同様に、「一年に2640グラムの減少ならば4545年分のカリが土壌中に
あるので、リン酸と同様に数十年程度は、カリ不足は余り問題にならない


2.雑草の役割
自然栽培において、あえて雑草を取らないのは、次の二つの意義がある。
第一には雑草分解物の有機成分によって、土壌の団粒構造を保つことである」
「第二には、雑草の根は大麦の根と同様に、りんご自身の深い根と共に、土壌の下層のミネ
ラルなどの養分をポンプのように吸い上げて、りんごの根の多い上層の土壌に運ぶことであ
る。このようにして肥料を施さずとも、リン酸、カリ、カルシウム、マグネシウム、鉄などのミネ
ラル成分が補給されると考えられる


この論考の要点は、次の通り。
1.リン酸とカリは土壌中に充分蓄積されており、作物の果実・種子などの多少の持ち出しに
よっては、絶対的不足に陥ることはない。
2.チッソは、マメ科植物を取り入れることで空中チッソを利用する。
3.雑草によって、各種ミネラル成分は補給する。
この場合、リン酸とカリについては土壌中のストック量と年々のフローとの関係で養分収支を
考察するが、チッソに関しては土壌中のストック量は考察の対象外に置かれ、フローだけを
問題にする理由が分からない。
他方、リン酸とカリについて、ストック量が、そのまま植物に利用しうる形態なのかどうか、
ストック量とフロー量との関係からだけで、数千、万年単位で利用できると云い得るのかどう
か、「科学的な仕組み」の考察としては、多少、お粗末の感を免れない。とはいえ興味深い
論考ではある。

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この記事は、取り敢えず「参考記事」の中に入れておいた。問題は「覚書」として、一括して
ある記事の扱い。文字通り「メモ」的な記事、土壌肥料学的な記事、書評的記事など様々。
要するに「日誌」に分類されない農業関連記事を全部「覚書」に一括してきた。これを内容に
即したカテゴリ分けをするには、どうする??余りに細分化するのも煩いし。
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by agsanissi | 2007-10-09 23:48 | 考える&学ぶ
2007年 08月 19日

土を考える/無肥料栽培/16

曇、気温は6時現在で16度台まで下がってきた。北緯40度線を境に大陸の高気圧と太平洋
高気圧のせめぎ合いが続いているようで、東北北部上空はすっぽり雲に覆われている。その
谷間を日本海側からは雨雲が寄せ、今日は一時的に雨になるかもしれない。
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世の中には、いろんな考え方があるもので「無肥料栽培」(参照)という農法がある。
無肥料栽培とは、化学肥料・農薬はもちろんのこと、有機肥料(堆肥、油粕、魚粕を含む)
を一切使用せず、土壌と作物そのものがもつ本来の偉力を発揮させることで作物を栽培する
農法のことです。これからの農業がゆく、道しるべがあります
」と説明されている。
福岡さんの自然農法と同じ考え方かというと、やや違うというより、ある意味では根本的に
違うようだ。まして前回に触れた生態系農法という意味での有機農法とは、化学肥料・農薬
のみならず「有機肥料・堆肥は一切使いません」という点で、根本的に異なる。

とはいえ、「本農法は作物栽培において、大自然の生理生態系と、その土本来の偉力(機能)
に着眼するものであって、現代の農業技術管理体系を尊重するものであり、決して自然に任
せる放任的な栽培をいうものではありません
」と自ら説明している。つまり科学農法の一部
であって、耕起・除草をシッカリやる点で「自然に任せる」放任農法とは違うが、自然の生態
系に着眼する点では生態系農法だが、人為的な有機肥料・堆肥の外部投入は一切排除する
尤も、福岡さんの自然農法が放任農法かというと、それではまるで採集経済への後退で栽培
とは云えない。しかし福岡さんが耕起するから土は貧しくなると云う(4回参照)のとは正反対
に、土を耕し栽培することで土は豊かになるという。
いったい「どうなってるのかね?」と素朴に思う。

いままでに、
自然農法という考え方は、大雑把に云えば、作物栽培の抱えている本質的矛盾を避けるため
に、作物をあたかも雑草のように育てようということだ
(3回)とか
有機農法の基本的な考え方は、比ゆ的に云えば「一物全体食」の考え方と同じものだ(15回)
とか書いてきた。これと同じ要領で「無肥料栽培」の考え方を、簡単に表現するには何と書け
ば良いか考えているが、それが未だに分からない。
「無肥料栽培」のWEBサイトの中で「参考資料」として掲載されている「化学と工業」誌
の「肥料と農業の歴史と、その未来」(参照)には
近年、欧米では低投入持続型農業(LISA:Low Input Sustainable Agriculture)という
概念が、有機・無機肥料問わず、農業全般的に重要な方向性として広く認められ始めている。
それは、農地外部からの投入資源に頼った農業をなるべく控え、必要となる有機物や肥料成
分を、緑肥作物の導入(粗大有機物、炭素成分の補給)やマメ科作物(窒素固定力をもつ)
の輪作といった、自己完結的な自然のシステムがもつ小循環を最大限に活用する体系である

という記述を引用している点から考えると、ノーフォーク式輪作の伝統の上に立つ考え方か
とも思えるが、必ずしも明瞭ではない。

「土を考える」と題して、いろいろ書いてきたけれど、僕が最も関心を抱いている考え方は
ここに取り上げた「無肥料栽培」だ。考える素材として何を取り上げたらよいか、どういう点が
テーマになりうるか、いまは考慮中。

やや唐突のようだが、今朝読んでいたあるインカ文明の研究者の言葉に、
 酷(むご)いことですけれども、人間なんて、幻想の中に生きる生き物ですから、自分が
信じるべきもののためであれば、何でもやれてしまう。植民地時代以降の新大陸の歴史を見
ていると、特にそれを感じます。私たちが、自由と民主主義のため、と言って世界の各地で
やっていることも、一歩下がって歴史の目で眺めてみる必要があるような気もします。

というのがあった(参照)。
「幻想の中に生きる生き物」という突き放した見方に、ある意味で感動を覚えた。「幻想」を
形作るものは、哲学であり、宗教であり、歴史観である。時に、科学的思考もまた「幻想」の
一部ではないかと考える。それを明かすものは歴史である。
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by agsanissi | 2007-08-19 06:24 | 考える&学ぶ
2007年 08月 05日

遺伝子組み換え大豆/イミテーション食材

早朝から、依然として20度を超える蒸し暑さ、無風状態で、このまま吹き返しもないか。
6時過ぎ雨、温帯低気圧に変わった台風五号に伴う前線の影響によるものだ。

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7/24の中日新聞によると次世代の遺伝子組み換え作物は「消費者志向」型を目指すそうだ
参照)。「米国では大豆の九割、トウモロコシの七割を占めるまで増加している。しかし除草剤
耐性など、主に生産者に有利な特性ばかりで、消費者に訴える力に乏しかった

生産現場は、基本的に制覇したので、今後は「消費者志向」型の遺伝子組み換え作物を開発
し、需要と供給の両面から穀物生産の寡占的支配を謀ろうとするものだ。
当然、予想される事態だが、手順といいタイミングといい、唸りたくなるほど見事な戦略だ。
現在、研究開発中のダイズ(及び関連製品)は、
魚油に含まれるオメガ3脂肪酸を多く含有する大豆。オメガ3脂肪酸はドコサヘキサエン酸
(DHA)、エイコサペンタエン酸(EPA)などで、血を固まりにくくするなどの効果がある。もと
もと海藻が作ったもので、それを魚が食べるために、魚に多く含まれている。

また、悪玉コレステロールを増加させるトランス脂肪酸を作らない大豆油も開発された。トラ
ンス化しないオレイン酸の比率が高く、トランスになりやすいリノレン酸の比率が低い。

だそうだ(トランス脂肪酸の事は、前に書いたことがある、参照)。

当面、成人病または生活習慣病や脂肪の取りすぎが、単なる個人的食習慣という性格を超え
て社会問題化している先進諸国では、大いに支持を受ける可能性なしとしない。
医食同源と云う言葉があるが、こうなると文字通り食品と医薬品の境目が不明瞭になり、仮に
このような食材が消費者の支持を受けるとすれば、様々な食品、医薬品、機能的添加物の
要素を組み合わせた「便利」なものを開発するために、世界中の優秀な知能が寸暇を惜しん
で知恵を絞りつくして鎬を削ることになろう(既になっているのかな)。
僕は、そんなものは食いたいとは思わない。ダイズはダイズ、魚は魚、海草は海草で食べたい
と思うけれど、何だかわけのわからない加工食品が氾濫している世間では、それこそ消費者
志向にピッタリの可能性もないではない。科学技術の怖さは、一旦その方向に向かって走り出
すと、その勢いを制御する内的規制力を持たないことだ
。当初は、その便利さや偉力にうっとり
とし、計り知れぬ社会的災厄をもたらして後、初めてその愚かさに気付いたという事例は技術史
の中に枚挙に暇がない。

イミテーション食材、機能的要素の抽出による組合せ人工的素材と天然素材との優劣など
「土を考える」の中でも取り上げてきた問題を考える(或いは観察する)格好のテーマになり
そうだ。これは問題の一面。もう一面は、世界の食材の基礎的素材の質が寡占企業の戦略
によって規定され・依存すること

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by agsanissi | 2007-08-05 06:44 | 考える&学ぶ
2007年 08月 04日

土を考える/有機農法/15

1日の朝は11度まで下がったが、2日の朝7時以降は一貫して20度以上で、今朝は蒸し
暑い。6時前に一時雨になるが、7時現在は無風。台風は秋田沖の北緯40度線上付近。
これから津軽海峡を抜け、つれて風が強まるか?或いは明日の吹き返しの方が強いか?

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有機農法の基本的な考え方は、比ゆ的に云えば「一物全体食」の考え方と同じものだ。
即ち、機能的要素と思われるもののみを抽出した人工的素材を排除して自然素材のものを
丸ごと全体として利用する。この場合、本来の自然素材はその地域の風土的条件に対応した
ものであり、その土地の環境によって育まれたものでなければならない。
いまでは「有機農産物の日本農林規格」(参照)が規定され、逆にこの規格に沿った農産物を
産出する農法が有機農法かに矮小化されている
が、有機農法の本来の考え方を最も原則的
に反映している自然農法国際研究開発センター技術研究部の編纂した「MOA自然農法」(農文
協/1991刊)から、「自然農法の原理」とされているものを要約してみよう。
同「研究開発センター」の規約第三条の「目的」には「自然農法」を「地域の実情に応じて自然の
生態系を利用した生産技術体系」と規定しており、従ってそれは固定的な技術体系ではなく
研究開発の対象である。
その場合の「根本理念は自然順応、自然尊重にある。自然農法の原理とは、土の偉力を発揮
させることである。土を生かすということは、土壌に人為肥料の如き不純物を用いずどこまでも
清浄を保つのである。そうすれば土壌は邪魔物がないから、本来の性能を充分発揮し得る

と(同開発センターが自然農法の創始者と仰いでいる岡田茂吉は)書いている。
いわゆる有機農法と自らの自然農法とを区別している事は、
農薬や化学肥料を使用しないか制限する農法には、生態系農法、代替農法、有機農法、各種
の微生物農法などがある。これらの農法の中で、自然農法は広義の生態系農法に含まれる
云ってよい。あえて特徴を挙げれば、自然の摂理を尊重し、自然に順応するという理念が明確
になっていることである
」と書いていることで分かる。
但し、あえて云えば、ほかの如何なる農法にせよ「自然の摂理」を無視して成り立ち得るの
か、当事者の如何なる意図にも関わらず、すべての人間的営みは結果として「自然に順応」
せざるを得ないのではないのか。やや言い過ぎを承知で書けば、我独り自然を代表するかの
独善性が不愉快だ。
「自然農法の原理」として、いろいろ書いてあるが、その大部分は自然農法の利点(例えば
根張りが良い、姿形が美しい、美味い、日保ちがよい、土壌生物が多い等)及び応用技術で、
本来の原理と見なされるものは、堆肥の利用に尽きると云ってよい。
良い堆肥の作り方、立地条件に合わせた堆肥素材の選び方、堆肥利用上の注意(堆肥を生き
物として扱う)、その他雑草対策、害虫対策、輪作連作、共作、地表被覆等、いろいろ書か
れているが、これらはすべて堆肥の応用技術に関連するもので、農法の基本点としては堆肥
利用に尽きる
。また、この点でここに云う「自然農法」と福岡さんの自然農法は基本的に違
っている。
福岡さんは、こういうことを書いている。明治大正時代の日本の農業は有畜の堆肥重点主義
の農業で、経営状態は多角経営であって、集約的経営であった。これを真似たのが外国の
有機農法だ。これをもう一度日本にもってきた。「有機農法は、聞いた範囲内では、西洋哲学
の考え方に出発し、科学農法の一部に過ぎないのではないか。科学農法と次元が同じである。
もち論、結果的に見て、実践していることがらそのものが、昔の堆肥農業と変わらないという
ことは、科学農法の一部と見られやすい

要するに、化成肥料を堆肥に置き換えただけで、科学農法と同じ次元の農法だと批判する。

どっちが本来の自然農法かという議論には、僕は関心がない。自然素材を利用して、それら
をいったん堆肥化して、外部投入を認めるかどうかの点で、両者は基本的に違っている。
現在では、有畜農業は例外的だから身近の野草、籾殻、イナ藁、オカラ、米ぬか等が堆肥素
材として薦められているが、要するに堆肥化して外部投入することが基本技術と考えて良い。
なぜ堆肥化をするか?浄化または無毒化して自然の生態系を撹乱させないため。
枯葉や小動物の死体は、土の表面で浄化されるもので、そのまま土の中へ深く入っていく
ことはない。人為的に土中へ入れると特定の生物が急に増殖しほかの生物は減少するなど、
生態系がかく乱さえる。化学物質が入っても同様のことが起こる。こうなると、正常な浄化
機能が失われ、地上の植物や動物の系にも混乱が起こる。このような生態系の乱れや貧化に
よる浄化機能の低下が土を汚すということであろう

しかし生態系のかく乱や浄化機能の低下と云っても、タイムスパンをどの程度に見るかとい
う相対的な問題であって、福岡さんの視点から考えれば外部投入そのものが生態系のかく乱
要因ということになる。
こういう点から、自然農法と区別して有機農法に入れた。

但し、以上は本来の有機農法の考え方で、法的に規定された有機農産物を生産する農法とし
ての有機農法は、きわめて矮小化されたものでしかない。
「特別栽培農産物に係る表示ガイドラインの改正」(平成15年4月改正、平成16年4月施行)
の「有機農産物」の定義を見ると、
「化学合成農薬、化学肥料、化学合成土壌改良材を使わないで、3年以上を経過し、堆肥など
(有機質肥料)による土づくりを行ったほ場において収穫された農産物」(参照)とある。
厳密には、「日本農林規格」(上記)の規定によるが、実際的には化学合成資材を一切使わ
ずに3年以上継続して土作りをした圃場の農産物
ということになる。
第10回の冒頭で
有機農法の作物を宣伝するのに、直接に「有機農法です」という場合と「化成肥料や農薬を
一切使わない」と化学農法のアンチテーゼとして説明する場合とがある

と書いたけれど、有機農産物と「直接に」表記する場合も、余計な修飾語を取り除いた、最
も簡明な定義は「化学合成資材を一切使わない」ということに還元される。
なぜ、化学合成資材は一切忌避すべきなのか?
「日本農林規格」の第二条一項は
農業の自然循環機能の維持増進を図るため、化学的に合成された肥料及び農薬の使用を
避けることを基本として、土壌の性質に由来する農地の生産力(きのこ類の生産にあっては
農林産物に由来する生産力を含む。)を発揮させるとともに、農業生産に由来する環境への
負荷をできる限り低減した栽培管理方法

と曖昧に規定する。
・自然循環機能は、農業にのみ課せられた課題なのか
・自然循環機能を維持増進するためには、化学合成資材は一切忌避すべきものなのか
・農業生産に由来する環境負荷は、化学合成資材の使用にのみ還元されるのか
・化学合成薬剤の人間・家畜・環境への一般的投与は自然循環機能や環境負荷に係わりない
のか

誤解のないように書いておくが、化学合成資材を自由に使わせるべきだとかなんとか、そんな
ことを云ってるのではない。適正な使用法もなにもない、味噌も糞も一緒くたに自然循環機能
の維持増進と環境負荷の軽減のために農業においては化学合成資材は一切使用しないほう
が良いかに(たいした科学的根拠もなしに)宣言していることを問題にしているに過ぎない。
・天然素材なら良くて、化学合成資材はなぜ一切忌避すべきなのか
・化学合成資材の量と質が問題ではなく、化学合成そのものが問題なのか
・化学合成資材そのものが問題とするなら、なぜ有機農産物にのみかかわるのか
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by agsanissi | 2007-08-04 07:33 | 考える&学ぶ
2007年 08月 01日

土を考える/一物全体食/14

「一物全体食」という考え方がある。
食養道を説いた幕末の医者石塚左玄は「健康を保つには生命あるものの全体を食べることだ。
野菜は皮を剥いたり、湯がいたりせず、魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べ
よ。食物に陰陽の別はあっても、生きているものは、すべてそれなりに陰陽の調和が保たれ
ているのだから、その部分だけを食べたのでは健康長寿は保てない
」と、口癖のように説いた
そうだ(沼田勇「幕末名医の食養学」)。
石塚左玄の食養学をいろいろ紹介して最後に、沼田勇さんは
大切なのは、自分がいま健康であるか、病気或いは病弱であるかを自分の体に問い、それ
をもとに自分にあった食生活を選び、実行することです。自然食を主体としている健康人な
らば、多少はいかもの、邪食を口にしても、たいした影響はありません。重労働をやる人も、
それは同じです。しかし加工食品にかたより、自然の法則から大きく外れた食生活を続けて
いる人が早晩、健康を維持できなくなることは明らかです

現代栄養学が分析的、科学的であるとすれば、石塚左玄の食養道は総合的、哲学的です。
左玄はヨーロッパ文明を批判し、生命の問題を生物学的に、民族的に、風土的にと広い視野
に立って思索しました
」と書いている。
福岡さんも石塚左玄の思想を受け継いで「自然食」を説いている。「わら一本の革命」の
第五章「病める現代人の食」の中で、蛋白は蛋白、でん粉はでん粉であって、何から取ろうと
同じではないかという考え方は間違っているとして、次のように書いている。
それは重大な思考と責任のすり替えで、肉や魚も同様な運命をたどり、肉が肉でなくなり、
魚が魚でなくなる始めとなり、石油蛋白が上手に味付けされたりして、一切が科学的人口
食品に変わっても気付かない
平気な人間に転落することになる

部分的な材料を、どんなに豊富に取り揃えても完全食に近づくものではない。人智にもとづく
部分的なこま切れを寄せ集めれば寄せ集めるだけ、自然から遠ざかった不完全食が生まれ
るだけである。一物の中に万物があるが、万物を集積しても一物は生まれない

これは、すでに第5回目の「植物工場」及び番外編の「イミテーション文化」で取り上げた問題
と基本的に同じテーマである。

第12回で「人間の自然界でのすべての営みは、自然界の物質循環の一部である」と書いた。
自然界での人間のすべての営みを、最も簡略に、身も蓋もないいい方をすれば、食べること
と排泄すること
である。食べることで、自然界から身体を構成する諸物質を取り入れ、排泄
することで余分に取り入れた物質を土に返している。更に生涯を全うすれば、燃やして全部
土に返してやる。植物、動物、微生物など、生涯期間の長さや生体を構成する諸物質の組成
や割合には多少の違いがあるが、基本的には全部同じことだ。むしろ人間と植物が(人間と
微生物でも良いが)、まるで違ったものに見えながら、身体を構成する必須元素という視点
から見れば、殆ど変わらないことこそ驚きだろうか(「身体組成の研究史」参照)。

我々は、食べることで「生きている」わけだから、身体を構成する物質の9割以上を占める
酸素、炭素、水素(これは呼吸と水から取る)を除けば、生きるのに必要なすべての物質を
「食べる」ことで自然界から取り入れている。「自然食」という考え方は、まさにこの点から
発している。難しいことでもなんでもない。「一物の中に万物がある」からこそ、一物をまるごと
戴けば、多少の過不足はあっても、生きるに必要なすべての物質を取り入れることが出来る
という考え方だ。簡単に云えば、米(小麦)と魚と大豆(野菜)を、まるごと全部戴けば、それで
充分かつ健康に生きられるということだ(しかし豚を、まるごと全部食べるのは、牧畜民では
ない我々には、中々困難だ)。自然食品店で売っている食材が「自然食」ではないから、誤解
なきよう!

現代栄養学は、ある意味では、まるで正反対の側に立っている。
農水省は「食事バランスガイド」を公表している。その目的を次のように書いている。
生活習慣病予防を中心とした健康づくりという観点からは、野菜の摂取不足、食塩・脂肪
のとり過ぎ等の食生活上の問題、男性を中心とした肥満者の急速な増加などに対し、「食生
活指針」を普及することにより、より多くの人々に栄養・食生活についての関心や必要な知
識を身につけてもらい、食生活上の課題解決や肥満の改善に結びつけてもらうことが必要に
なってきました。
」(参照
17年7月に公表された「第七回フードガイド検討会」の報告書(参照)を仔細に見ていくと
(そんな暇人は滅多にいないか?!)、現代社会で健康に生きていくことが至難の業のように
思われてくる。年齢・性別、基準体位別、身体活動レベル別の日本人の一日の食事摂取基準
量と食品構成を眺めていると、それだけで頭が混乱して、食べるのが億劫になりそうだ。
ひと言で云えば気違い沙汰!!
こうなるには、基本的には二つの理由があるような気がする。分析科学の進歩と云っても良い
し、栄養学と健康との関係についての科学的知見の深化と云っても良い。但し、科学的知見が
どんなに進歩しても、現代人は一向に健康になっているようには見えないのが最大の難点だ

寿命が延びたではないかと云うかもしれないが、それは乳幼児の死亡率の減少とたとえ病気
であれ、中々死ねないという現実が、大きく貢献している。栄養学であれ、医学であれ、
当該科学の進歩によって現代人の健康は益々増進しているとは、とても自信を以て公言できる
状態ではないだろう。
二つ目は、我々の食事が「一物全体食」から、正反対の方向に向かっていることだ。
イミテーション食材は云うに及ばず、加工食品の氾濫、外食産業への依存、輸入食材の氾濫、
これらすべての事情が「一物全体食」を、益々困難にする方向に向かってひた走っている。
挙句の果ては「食べること」を抜いたり、ダイエットのために食べるかに錯覚したり、逆に「食べ
ること」自体が厭わしいという摂食障害のような倒錯現象まで引き起こすに至っている。
例えば大豆を食べる。煮豆で食べる、納豆で食べる、豆腐で食べる、豆乳で飲む、味噌醤油
で取る、大豆加工食品・スナック菓子で食べる等、いろいろな方法がある。全体食という点から
みれば煮豆、納豆、味噌が良いか。豆腐や豆乳では半分以上の栄養分を排斥してしまう。
加工食品やスナック菓子では、何がどうなっているかも分からない。煮豆、納豆、味噌でも
自分で作れば、いざしらず出来合いの加工品を買ったのでは、スナック菓子と五十歩百歩。
もっと簡単な塩はどうか?粗塩には、数十種類のミネラル分が入っているが、精製塩は塩化
ナトリウム(+何種類かの添加物)だけ。
例えば「魚なら骨やはらわたを抜かず、頭から尻尾まで食べよ」という食べ方が出来るのは
取立で新鮮でなければならない。鰯を丸ごと天ぷらにして食べるほど美味しい食べ方はない。
烏賊のはらわたを炒めて、そこに烏賊を丸ごと入れて焼いて食べるほど絶品の食べ方はない。
そんな食べ方は、冷凍輸入物では不可能。こういう贅沢な食べ方が出来るのは海辺の百姓か
漁師くらいなもの。しかしそんな職業は、ますます敬遠される一方。
事ほど左様に、我々の食品・食材や生活様式は「一物全体食」から遠ざかっている。この両者
が相俟って、科学的知見は深まっているのに、却って我々の健康は脅かされるという一見、
矛盾した状態が生まれる。
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by agsanissi | 2007-08-01 01:50 | 考える&学ぶ
2007年 07月 28日

土を考える/化学農法・続々々々/13

16.1/23.8度、日照2.9時間、前線は太平洋南岸に後退したまま、東北地方は日本海
から三陸沖に抜ける低気圧や寒気の影響で二三日は、やや不安定な天気が続く見通し。
梅雨明けは、まだ宣言されていないが、この不安定な気圧配置が解消すれば、このまま
梅雨明けになるのかな?
*********************
前回分に、そのまま追加書き足しをするつもりだったが、長くなりすぎるので別項を立てること
にした。

物質循環という視点から見て、最も本質的と思われることのみを指摘しておく。植物の生体
を構成する元素は16(乃至17)で、このうちの3元素、即ち炭素、水素、酸素は生体量の
99%を占めるが、大気及び水で供給される。残り13(14)の内、三大栄養素とされたチッソ、
リン、カリのほか、カルシウム、マグネシウム、イオウを含む六元素が比較的大量に要求される
成分、その他の7(8)が微量元素といわれる。カッコ内は、最近になってニッケルの必須性が
新たに注目され、+1とした。きわめて大雑把な分け方をすると、大量元素は生体を構成する
元素。これに対して微量元素は酵素の活性基として必須の元素。酵素は代謝活動のバランス
を調整する機能を果たしており、活性基とは酵素が酵素としての役割を果たすための活躍の
基である。
植物(及び動物)が生きていくためにはエネルギーが必要である。土中に根を伸ばし、空中に
茎を伸ばすためにも、土中から養分を吸収し、栄養分を体内に循環させるためにもエネルギー
が必要である。土中及び大気中から吸収した元素からエネルギーを取り出すことを異化、その
エネルギーを使って吸収した元素から生体を作ることを同化という。同化及び異化を合わせ
て代謝活動という。同化・異化のバランスはもち論、同化作用のバランス(植物生体の葉・茎・
根、花、実など各部への栄養分の配分や生育ステージに合わせた配分などの調整)や環境の
変化に応じた生体の変化などの諸活動をバランスよく調整する役割を果たしているのが酵素
であり、その酵素の活動源になっているのが微量元素と思えばよい。必要量はきわめて微量
だが、それが不足すれば生体の各種活動や反応に狂いが生じてくる。病気または病気に犯さ
れやすい状態、虫等に攻撃にされやすい状態または生体の防禦システムが働きにくい状態と
思えばよい。
チッソ、リン、カリなどの大量元素のみを投入して作物栽培を続ければ、土中の微量元素は
不足する。特定野菜のみを継続的に栽培すれば、その野菜の要求度に応じて特定微量要素は
急速に消耗する。一方、投入された肥料は全部は吸収されず、大量元素のみは土中に蓄積さ
れる。土中の栄養バランスは急激に変化し、かつその変化に応じた様々な化学変化が引き起
こされ(これは同時に土壌微生物の代謝活動の場であるから、微生物の量及び質も変化す
る)、作物の栽培環境は変化する。作物とその栽培環境の適合・不適合は、ある範囲内であれ
ば適応出来るが、野菜連作と肥料の大量投入で容易に不可逆点を超える、これが第一。
大気・土壌・海を通して物質循環のサイクルは巡っているが、特定肥料要素の大量輸入や
投入、また作物の大量輸入は、物質循環という視点から考えれば、物質循環サイクルに著しい
偏倚を引き起こすことになる。食糧の大量輸入は、食糧を構成する元素の輸出国から輸入国
への移転であり、一方的かつ継続的移転が地球規模の物質の大循環サイクルにどんな影響を
及ぼすか、これは化成肥料の利用とは直接には関係ないが、人体または家畜を通して糞尿と
して土壌に還元される以上、土壌の栄養バランスに深刻な影響を与えることは間違いない、
これが第二。
まとめると、それぞれの風土的環境の中で土壌が本来持っている生産性にはある限度がある。
その限度は、無機的・有機的に限らず肥料を利用することである程度広げることが出来るが、
土壌の復元力・緩衝力・浄化力を超えて広げれば、急速に疲弊する。化成肥料の利用は、こ
の土壌の復元力を超えて、容易に不可逆的に変化させ得るところに本質的欠陥がある

逆に、二圃式輪作、三圃式輪作は自然の復元力に時間的余裕を与えるものであり、ノーフォ
ーク式輪作はダイズ作などを取り入れ、根粒菌の働きで空中窒素を固定化して土壌の富化を
はかり自然の復元力を促進させようとするものである。
化成肥料という外部的投入物で、自然の枷を取り払うことで、一見、土壌の生産力を恣に制御
しうるかに見えたが、結局、土壌バランスの急激な変化による逆襲を受けざるを得ぬということではないか。この点、福岡さんの云う作物は肥料で取るのではなく、土で取るという考え方が
基本的には貫徹されるということではないか。
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by agsanissi | 2007-07-28 23:15 | 考える&学ぶ
2007年 07月 28日

土を考える/化学農法・続々々/12

どんなに優れた意見も、必ず時代の刻印を背負っている。
有吉佐和子さんの「複合汚染」が、行過ぎた科学主義に警鐘を鳴らし、人々に公害や環境破壊
のもたらす災厄に真摯な目を向けさせ、それを事実上放置した政府、科学の名において擁護
した科学者の欺瞞を引ん剥くのに、70年代初頭に果たした功績は揺るぎない。
僕は、もはや公害・環境問題を放置することは許されないという世論を確乎たるものにする上で
果たした有吉さんの偉大な功績を忘れない。しかし個々の具体的問題では、発言の社会的・
技術的条件を忘れて、その結論だけを担ぎまわれば、どんなに一面的で誤った方向に突っ
走る可能性があるかということを、少々過激に・演説調に表現するために、有吉さんを貶める
ようなことを敢えて書いた。そして卑小な追従者は、概ね社会的・技術的条件を忘れて、結論
だけを有難がるのに忙しい。

さて、もとに戻ろう。僕は何かを主張したいと思っているわけではない。ただ考えている。
思考錯誤の過程であり、一生、それで終わるかもしれない。僕は、幸いにも科学者ではない
から、何かの学説を立て、それを後生大事に守らなければならぬという詰まらぬ意地を張る
必要もない。ただ考え、自分の思いに沿って耕し、畑を観察し、土を思い・考えていれば良い。
間違ったと思えば、誰憚ることなく、訂正すればよいし、訂正しなければ自分の首を絞める
だけだ。そのための思考及び試行錯誤の過程だ。農業を自然の大地を実験場とする科学的
営みと心得ているが、それでも傲慢な科学者のように、時に時代を深刻な災厄に陥れる程の
無謀なことはやっていないから、間違えば深刻なしっぺ返しを先ず受けるのは自分だから、
多少は大目に見てもらえるだろうか。
「耕す生活」の「連作障害対策としての輪作」の中で引用したことのある「図解土壌の基礎
知識」(参照)が「化学合成肥料ばかりを使った場合の弊害」を簡単に、分かりやすくまとめて
いる。
有機物の消耗、土壌の酸性化、酸性化に伴う不活性化・活性化(例えばリン酸が土壌粒子と
結合して作物が吸収できない状態になったり、逆にアルミニウムやマンガンが活性化して作物
に過剰吸収されたり)、微量要素の欠乏、土壌動物の偏りなどだろうか。但し微量要素や土壌
動物(殊に微生物について)は、初版出版当時(1974)には研究上の制約もあって、さほど
その重要性については触れられていない。
その上で、土壌を保全するためには、西欧の昔の二圃式輪作、三圃式輪作、ノーフォーク式
輪作が如何に合理的な作付け体系か、また有畜畑作農耕の果たした役割が大事だったかを
説いている。輪作体系が打ち捨てられ、有畜畑作農耕が断ち切られ、化成肥料にのみ依存
した野菜の連作、これを過剰に促進した畑作農耕の軽視(小麦・ダイズは安い外国産を輸入
すれば良い)と主産地形成政策。要するに科学と政治の合作によって土壌の荒廃は促進され、
百姓はただその舞台の上で、舞台と観客にマッチした踊りを踊るしかなかった。

なぜ化学肥料ばかりを使うとまずいのか?
こういうことではないかなと、僕が、今の時点で考えていることを最後に書いておこう。
自然界には物質循環がある。自然界を構成するいろいろな物質が結合したり、離合したりして、
その姿態を変容させる過程である。酸素、炭素、窒素などの元素が巡る姿である。自然界に、
やがて生物が現れ(微生物、動物、植物)、物質循環に代謝循環という新たな、特異な循環
過程が参加した。代謝循環とは、言い換えれば生命活動である。生命活動であるとはいえ、
それは物質循環の一部であり、大循環サイクルの部分循環・小循環サイクルである。
この部分循環サイクルが参加したことで、大循環サイクルの過程には変化はなかったが、その
サイクル・スピードが加速された。そこに人間という高度な意識を持った動物が参加することで、
このスピードは異常に加速され、かつ様々な偏倚現象を引き起こした。とはいえ人間の自然界
でのすべての営みは、自然界の物質循環の一部であり、大循環サイクルを一時的に撹乱させ
る小循環サイクル以外のなんでもない。
このイメージを前提にして作物栽培を考えてみる。
自然の土壌には、その風土的環境に応じたそれぞれの生産力がある。土壌の肥沃度といわれ
る。肥料は、この自然によって課せられた土壌の制限性にある程度の余裕を与えてくれる。
しかし雑草や土壌動物の死骸の肥料化を待つにせよ、人糞尿や家畜糞尿を利用するにせよ、
手工業的規模に留まる限り、自然による土壌の制限性に対する自由度は高が知れている。
これは、言い換えれば、海や土の持っている復元力を、本質的に撹乱させるほどのものでは
ない。土壌学の言葉で言えば、土壌の緩衝能力・解毒作用を失わせるほどのものではない。
しかし現代科学とその技術は、自然の大循環サイクルを復元不可能、少なくとも人間的レベル
の時間サイクルでは復元不可能なほどの不可逆点を超えうるほどに高度化した

作物栽培に関して云えば、土壌の肥沃度の機能的要素と思われるチッソ、リン酸、カリを抽出
し、それを投入することで作物生産性を飛躍的に拡大した。しかしそれは当初錯覚したように
土壌の肥沃度そのものを高めたわけではなく、土壌の能力を絞り尽くすことで、却って土壌を
疲弊化させるものでしかなかった。
なぜそうなるか、ならざるを得ないかの分析は科学に任せる。取り敢えず作物栽培における
微量要素、土壌微生物の本質的役割の軽視を指摘できる。(続く)
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by agsanissi | 2007-07-28 07:00 | 考える&学ぶ
2007年 07月 27日

土を考える/化学農法・続々/11

前回言及した「化学合成肥料ばかりを使った場合の弊害」について、簡単にまとめておく。
まず、有吉佐和子「複合汚染」から、
問題はしかし、機械の完備だけでは解決しない。耕転機で、どんなに田畑を耕しても、
化学肥料をまけば、土はカチカチの固りなってしまい、大雨は作物の根を流すし、旱ばつには
作物の根をひからびさせる原因になる。
土が死んでいる
という言葉が出るほど、農村をまわっていてよく聞く言葉はなかった。
私は最初のうちは、それが殺虫剤、殺菌剤、除草剤によるものかと思って聞いていたのだが、
もちろんこれらの農薬の強い毒性が土に与える影響は大きいけれど、もっと根本的に云えば
、多年にわたる化学肥料の、きわめて多量の使用が、土の本来的に持っていた活力を失わ
せている事実はどうしても見逃せなくなった

かなり衝撃的なルポ風の文章になっている。
僕は、有吉さんの作品は好きだ。筆力には敬意を払ってもいる。「和宮様御留」など、着想は
面白いが全体の構成はやや破綻している、それを細部の緻密な描写で支えている、それほど
描写力に敬意を持っている。しかし「複合汚染」は駄作だ。僕が百姓だからそう思うわけでは
なく、新聞連載当時から読むに耐えない、「朝日」のヤラセに乗せられたのじゃないかとさえ
考えた。それでも、その筆力と相俟って、「複合汚染」は広範な社会的影響力を発揮し、全体
としてこの本は公害・環境問題に深刻な警鐘を鳴らす意義を持っていたと思う。同時に
「反科学主義」に油も注いだ。
前に書いた通り「その責任は百%科学の側にある」と考えているから、有吉さんの責任がどう
とか書くつもりはないが、軽薄なマスコミの風潮と相俟って、科学的問題を情緒的に捉える悪弊
をながした
。「化学肥料をいっさい使わない」ことに何か積極的意義があるかに思わせる情緒的
雰囲気を形成する礎石の一つにはなった。

科学的には、こんな記事は取り上げるに値しないほどの愚論だ。しかし実際には稚拙で生硬
な表現力の科学論文よりこんな記事の方が遥かに絶大な影響力と知的喚起力を持っている。
まさかコンクリートじゃあるまいし、それだけの要因で、撒けば「土はカチカチの固り」になるはず
がない。
ところが、まず衝撃的な事実を挙げる。次に「多年にわたる」「きわめて多量の」と続ける。
しかし農業の現場を知らない人の頭には「化学肥料をまけば、土はカチカチの固りになる
という半可通の知識だけが定着する。
仮に、化学肥料を「多年にわたって」「きわめて多量」にまいて、土がカチカチの固りになった
とすれば、それには次のような社会的・技術的条件が前提としてあったはずだ。
・畑作の後退と消滅、これで畑への有機物の還元が急速に・かつ決定的に消滅した。
・主産地形成政策の全国的普及、これで野菜作の連作が始まり、有機物還元の消滅と相俟っ
て土壌の劣化を促進した。言い換えれば「土の本来的に持っていた活力を失わせ」ることに
つながった。
・野菜の連作が石灰の多用を促進した、石灰は時に土中で水を吸収して文字通りのコンクリ
ートになった。
取り敢えず、このくらい指摘しておけば充分だ。

事実の、頭の中だけでの短絡的な接合は、必ず間違いを犯すことを繰り返し指摘してきた。
例えば、肉を食う⇒森を伐採⇒砂漠化と、短絡的につながるわけではない。仮にそのような
つながりが出来たとすれば、必ずそれを必然化する社会的・技術的条件が前提としてあるはず
だ。それを忘れて頭と尻尾だけを取り出せば、漫画的な愚論を平気で・真面目腐って言い出す
ことになる。
核分裂によって人類が有史以来、手にしたことのないほど巨大かつ強力なエネルギーを取り
出すことに成功したからといって、それが即戦争で核兵器使用につながるわけではない。
多くの中間項、この場合には社会的・技術的条件のみならず、政治的・経済的・軍事的・思想的
条件等が介在するはずだ。
同じことは、より単純であるにせよ、化成肥料をまく⇒土が死ぬ、カチカチの固りになる
についても指摘できる。要するに両者の間には、いろいろな中間項、社会的・技術的条件が
あり、それを忘れて両者を短絡的に接合すれば、どんなに筆力があろうと漫画的愚論を書く
ことになる。

ひとつの経験的事実だけ指摘しておく。
僕が14年前、現在の開発農地に入植した当時、普代に行って最初に会った普及所の所長は
「風来さん、こんなところで農業やるより、焼き物やったほうが良いよ」
と云った。赤土の粘土質土壌で、ひと雨降ればドロドロの泥濘、乾燥して固まればまさに
焼き物同然の固まり。手で大根のタネを植えれば、百メートルもやれば指先の皮が剥ける。
二年目、ディスクプラウをかけても、いまでは15-20センチ入るディスクの刃が10ミリも
入らない、まるでコンクリートのようだった。それは多年、化学肥料を使ったお陰ではなく新開発
の粘土土壌だったからだ。
僕は、そこに入植して、14年間農業をやってきた。二町歩余から始めて三十町歩まで拡大し
た。最近また、年齢その他を考慮して縮小均衡に持っていく方向に転換し、十七町歩まで減ら
した。更に十町歩程度まで減らして生活できる程度にしたいと思っている。誤解して欲しくない
が、稼ぎたいのではない。気象条件が余りに厳しくて、畑作経営では一般的には十町歩程度
ではまともに生活していく見通しが立てられないのだ。
ジャガイモ、小麦、ソバ、ダイズ、ヒマワリ、ナタネ、人参等を作付けしてきた。
この間、肥料として基本的には化成肥料しか使っていない。堆肥は、自分の費用では経営的
に購入して投入するのはほぼ不可能なので、14年間に二度しか入れていない。
僕は、基本的に二つの目標を持っている。
・作物を作りながら畑を作る
・ミミズの棲める畑にする
それで、この14年間に「土はカチカチの固り」になったか??
全く逆だ。カチカチの固まりが、ほかの畑に比べ最も緩衝性のある土になりつつある。相変わ
らず雑草は多いが、作物はまともに取れるようになったし、品質は高く評価されている。ひと雨
降ればドロドロの泥濘と化したかつての惨状はなくなったし、僕に「焼き物」を薦めたかつての
所長は、定年退職するに際して僕に陳謝の頭を下げた。
だから僕は、有吉さんのために、あんな一面的デタラメの駄作文を書いたことを惜しむ。

化学農法は、これで終わろうと思ったがもう一回書かなければならなくなった。
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by agsanissi | 2007-07-27 04:22 | 考える&学ぶ
2007年 07月 25日

土を考える/化学農法・続/10

有機農法の作物を宣伝するのに、直接に「有機農法です」という場合と「化成肥料や農薬を
一切使わない」と化学農法のアンチテーゼとして説明する場合とがある。有機農産物を公式
に名乗るには法の網が被せられ、小煩い認証制度と課徴金の関門が控えているから有機
農産物を気取るには化学農法の敵役を名乗るのが一番手っ取り早い。
しかし有機農法は、本当に化学農法のアンチテーゼでなければならないのか?或いは化学
農法を全面的に否定しなければ有機農法とは云えないのか
(有機農法について協議する何
とか専門家会議はこういう立場だ、こんな非科学的立場に立って「専門家」とは笑わせるよ)?
この点は、後に改めて考えてみるけれど、今回は「化成肥料や農薬を使わないこと自体に」
価値があるのかどうかを考えてみよう。

この問題は、一年半前に「有機農業コツの科学」の書評めいたものを10回書いたときに、
その最終回「学ぶということ」(参照)の中で「農業は、本質的に化学合成肥料や化学合成農薬
を忌避すべきものなのかどうなのか」という形で提起したことがある。農産物の安全及び環境
保全という視点からの一般的考え方については、そこで既に書いたので参照して頂きたい。
例えば、何らかのアレルギー疾患や農薬過敏症の場合には「農薬を使わないこと自体」に価値
はあるが、もち論、それは個別に対処すべき問題で一般的に忌避すべき理由にはならない。
天然には存在しない化学合成品薬品を使うべきではないという意見があるが、天然の猛毒は
幾らもあるし、そもそも毒物学は天然の毒物の模倣から出発しているのをご存じないのか。
この点、薬剤が天然か合成かは、それを利用した農産物の安全性とは何の関係もない。また
「合成薬剤」そのものを食べるわけではないから、農薬の残留性だけが問題になるが、それを
ゼロにする要求は、現代社会では空気・水・衣食住など環境そのものから口や皮膚を通して
化学合成物(医薬品もそうだ)を摂取する機会に不断に曝されている以上、不当に理不尽で
過大な「安全志向」でしかない。尤も、そのために特別料金を支払う人がいても良いし、それに
応えようとする生産者がいることは一向に構わないが、それは単なる自己満足(と云って悪け
れば、社会的要求水準を超えた贅沢)以外のなんでもない。
ひと頃、農家は出荷用と自家用の野菜を分けて、自家用には農薬を使わないのに出荷用には
バンバン使うなどの悪意に満ちた話が実しやかに喧伝されたことがあるが、そんなきめ細かい
ことをやってる農家なぞ、僕はついぞ見たことがない。まして、この数年、農薬使用基準は益々
厳しくなり、国内農産物に関する限り使用基準に沿った農薬施用によって「食の安全」が脅か
される可能性など、ほぼゼロに近い。

化成肥料はどうか?
農薬の場合、多少とも、安全性と関わると考える人はいるにしても、化成肥料の場合はこれを
「一切使わない」ことに、どんな意義と価値があるのか?僕は、この十数年、ずっとこの問題を
考え続けているし、なにか納得のいく説明があるかどうか探しているが、皆無だ。
化学合成肥料ばかりを使った場合の弊害を指摘する論文は幾らもなる。この問題は、ある一面
では機能的要素を抽出した代替物の寄せ集めを以て本来のものに置換できるかという問題、
簡単に云えばイミテーションは本物に代替できるかという問題に帰着する。
「イミテーション文化」で書いたように、天然のものには、その「機能的要素」と思われるものだけ
を抽出した代替物を以てしては換え難い価値がある場合がある。しかしそれを以て
「天然・自然」の看板を有難がるのは、現代のアニミズムに過ぎない。
例えば、普代は三陸若布の特産地の一つだ。若布にも、天然物と養殖物とがあって、かつて
漁師たちは生長が早いということで出荷用に養殖若布を栽培していても、自分では「養殖物な
んか食えるか」と云っていたものだが(僕は負け惜しみじゃないかと思って聞いていたが)、
最近は天然物は固くて美味くないという声が圧倒的だ。それは作物の野生種と栽培種の違い
のようなもので、殆どの人は栽培種に軍配を上げる。
では栽培種と野生種の違いと、例えば有機質肥料と化成肥料との違いとは、本質的に違うと
云えるだろうか?違うとすれば、何が違うのか?
栽培種も野生種も、「ともに自然のものだ」が、有機質肥料は自然のものだが、化成肥料は
化学合成品に過ぎない、と果たして云えるか?
野生種の人為的選択を通して食用・栽培に適した種を育成した以上、「ともに自然のもの」とは
云えないし、栽培種は野生種にはない長所・短所を持っている。同様に自然そのままの有機質
肥料はないし、自然物に由来しない化成肥料もない。
この場合、問題は天然か合成かではなく、合成対象にされた「機能的要素」が充分かどうか
ということではないのか?
化学肥料の生産高を見れば分かるように、昔は、チッソ、リン酸、カリなど単肥が殆どだった。
60年以降、単肥に代わってチッソ、リン酸、カリを一定割合で配合して化学的処理を施した
化成肥料が伸びてきた。最近は、三大要素だけではなく、様々な微量要素を加えた化成肥料
や作物の生育ステージに合わせて肥料成分が溶出するように工夫されたコート肥料、有機質
肥料を加味した肥料、有機質肥料をペレット化した肥料など様々なものが工夫・開発されてい
る。更に様々な微量要素や各種有機酸などを供給する葉面散布剤、微生物資材なども開発
されている。一方、養鶏や畜産業の糞尿処理の規制が強化され路上投棄など以ての外、野積
みも禁止されるようになって堆肥としての販売利用が拡大され、いまや「化学肥料と農薬に
どっぷりつかって
」などという農法は、いわゆる慣行農法を批判する有機農法論者の頭の中に
しか存在余地がなくなっている。

イミテーションが粗雑で、一面的であればあるほど、本物との違いを見分けるのは簡単だし、
代替物による交換可能性は一面的にならざるを得ない。かつてのチッソ、リン酸、カリなどの
三大要素だけの肥料は、その一面性が明白になるにつれ、改良されてきた。微量要素の重要
性や栄養摂取その他の面での土壌微生物の役割が知られるにつれ、堆肥利用の重要性が
強調されるとともに、また様々な資材が(価格は兎も角、化学肥料を使うのと同じ手軽さで)
利用出来るようになった。要するに化学農法と有機農法の境目はますます不明瞭になり、
相互転換がますます容易になりつつある。言い換えればイミテーションは、益々精巧になり、
本物との違いが見えにくくなるとともに、肥料に関して、そもそも何が本物なのだと問い直される
段階に至ったと云っても良い。
それでもなお「化成肥料をいっさい使わない」ことに、何か積極的意義があるといえるのか??
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by agsanissi | 2007-07-25 23:18 | 考える&学ぶ
2007年 07月 24日

土を考える/化学農法/9

歴史的回顧がやや長すぎた。「土を考える」というテーマでは、多少外れる面もある。順番と
しては次に有機農法を考えるつもりだったが、反科学主義の流れとの関連で「化学農法」を
先に扱っておくことにした。化学農法という言葉があるのかどうか知らないが、化成肥料や
農薬など化学工業品を主に利用する農法としておく。農業機械の利用は不耕起を原則とする
自然農法を別にすれば一般的だから除外して考える。

戦後の農業生産高の著しい増大及び農業生産性の向上の要因は農業機械、化学肥料及び
農薬の普及の三つに還元できる。概ね、その期間は1955年からの約30年間と見てよいか
と思う。この期間に、日本人は少なくとも飢えや栄養失調からは解放され、いまや「飽食の時
代」とまで云われるようになった。但し「飢え」からの解放には国内農業生産の拡大が貢献した
に相違ないが、「飽食」は専ら輸入農産物に依存している。僕の小学生の頃、半世紀ほど前に
は、まだ都会でも栄養失調という言葉が普通に聞かれたし、痩せてガリガリの洗濯板という
綽名(肋骨が洗濯板のように波打って見えた)さえあったくらいだ。
1960年代には、既に耕地面積の縮小も農業就業人口の減少も始まっていたけれど、概ね
80年代半ばまでは、農業生産性の向上で相殺されて農業総産出高は増大した(参照、7-23)。
農業生産性の向上を何で計るか、個別経営では比較的簡単だが、農業部門全体の生産性を
計る指標に何を使うのが適当かは中々厄介だ。目安位の考えで「就業者一人当たりの名目
純生産額」を取ると1960年に9万8千円、70年に34万円、80年に104万円、85年に129万
円、この25年間に13倍、絶対額では到底及ばないが、工業の生産性向上(10倍)を上回って
いる。
農業労働の軽減に最も貢献したのは農業機械の普及、一方、化学肥料及び農薬の普及は
労働の軽減にも貢献したが、それ以上に反収の増大で生産性向上に貢献した。
化学肥料の生産高は、硫安は1950年の150万トンから60年に242万トンに、化成肥料は50
年の4万トンから60年に240万トン、80年に449万トンに増大した。傾向としては単肥は60年
代で頭打ち、代わって化成肥料が80年まで増大し、やがて頭打ち(「日本国勢図会」から)。
農薬出荷高も1980年に68万トンでピークを打ち、その後減少し続け05年には27.5万トン、
出荷高の内訳で見るとこの間、殺虫剤が大幅に減少、除草剤がこれに取って代わり、殺菌剤
は横ばいという傾向が伺える(参照)。
これを農家経済の費用という面から見ると、反当り肥料費が1965年の3.5万円から85年に
16.6万円、同じく農薬費が1.1万円から11.4万円に増大した。統計の取り方が連続しない
面もあるが、この増大は1994年まで続き肥料費は21万円、農薬費は17万円でほぼ頭打ち
になった(参照、7-22)。化成肥料と農薬の生産高が80年にピークを打つのは耕地面積の
縮小による使用量の絶対的減少を面積当り使用量の増大で相殺できなくなったからだ。
絶対的にも相対的にも減少するのは、それから14年たってからだ。ちなみに僕の去年の反
当り肥料費は4500円、農薬費は650円だ。

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が翻訳出版されたのが1964年、有吉佐和子の「複合汚
染」の新聞連載が始まったのが1974年、農業の現場で、実際に化成肥料や農薬使用に歯止
めがかかるようになるには、更に20年を要した。その間に、農業の現場では、畑作から野菜作
へのシフト、主産地形成政策に伴う野菜の連作、連作障害や反収の減少、化成肥料と農薬の
過用、耕地の疲弊など諸問題が各地で発生し、「作物栽培の矛盾」は覆いがたいものになった。
化成肥料や農薬の使用は、この矛盾を解決するものではなく、却って激発させるものでしか
なかった。加えて環境面からの告発の声は高まる一方だ。
90年代半ばに流れはすっかり変わった。化成肥料万能・農薬万能の安易な考えは深刻な反省
を迫られ
、初めて実質的に化成肥料と農薬の使用が減少し始めた。僕はこれを反科学主義
の大きな流れの一部と考えている。この流れは「反科学主義の必然性」で書いたように、科学
主義の傲慢と権力や企業の走狗と化した科学者への不信が根底にある。科学主義が、自然に
対する畏怖の念を忘れ、「科学の力」が万能であるかに錯覚する行き過ぎを犯したように、
いまや逆の行き過ぎに向かって走り始めているのではないかと僕は危惧しているが、その責任
は百%科学の側にある。
いまや化成肥料や農薬そのものが、まるで悪者であるかに扱われ始めている。化成肥料や
農薬を使わないこと自体に、何か価値があるかの意識倒錯
さえ生まれている。かつてそれらが
登場したときには「魔法のランプ」であるかに珍重されたものが、いまやすっかり価値観は逆転
して厄介者の危険物かに見なされ始めている。
果たして、そうなのか??
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by agsanissi | 2007-07-24 02:14 | 考える&学ぶ