農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

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カテゴリ:ミミズの寝言( 104 )


2006年 01月 26日

ミミズの寝言


人の心は不思議なもので、時に、自ら作った枠の中に窮屈に自らを閉じ込めている。

「作業日誌」と銘打っている以上、こんな話題はふさわしくないなと、自ら「制限」すれば、
いまどき書くことは何もない。別段、書かずとも一向に構わないが、書くことで頭を活性化させる
とすれば、深呼吸のみならず、書くにこしたことはない。

そんなわけで、カテゴリーに「ミミズの寝言」を設けてみたら、自ら、無意識に設けていた「枠」
が取れてしまった。まず、テーマの枠が取れてしまった。次に、スタイルの枠が取れてしまった。
「寝言」だから、それこそ寝言だ。嘘は書かないが、うつつ言とは、自ずからなる差異がある。

裃を着けない、背広を着ない、いつでもありのまま、とはいっても、自ら設ける「枠」がないわけ
ではない。他人よりも「枠」の広さが、極端に広いに過ぎぬ。
ミミズが、いくらか開拓枠を広げてくれるか?

ご存知の方もいるだろうが、
ミミズの寝言も昨日のバランス感覚も、徳富蘆花の「ミミズのたわこと」や森鴎外の「歴史其儘と
歴史離れ」のもじりだ。こんな名作も、いまでは余り読まれないがいずれも「青空文庫」で読める
のは幸いだ。
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by agsanissi | 2006-01-26 06:28 | ミミズの寝言
2006年 01月 25日

バランス感覚


何かのコラムに「最近の時代劇は酷い、時代考証がまったくなってない」てなことを書いていた。

どんな風に酷いのかまったく知らないが、「最近の」というくらいだから、昔の時代考証はもっと
良かったということだろうか。

それで思い出したが、もともと1933年と1939年に出版された三田村鳶魚の「大衆小説評判
記」と「時代小説評判記」は、当時評判の時代小説、大仏次郎の『赤穂浪士』、白井喬二の『富士
に立つ影』、吉川英治の『宮本武蔵』、『鳴門秘帖』、林不忘の『大岡政談』、中里介山の『大菩
薩峠』、佐々木味津三の『旗本退屈男』、子母沢寛の『国定忠治』、島崎藤村氏の『夜明け前』など、
今に残る「名作」を、時代考証がなってないとして、それこそメタメタになで斬りにしてしまった。
どのくらい凄まじいかというと、お蔭で三田村鳶魚のほうが逆に出版社から干されてしまったとい
うくらいに凄かったそうだ。両評判記とも、その後復刻版が出され、中公文庫にも取り入れられたが、
今では古本でしか手に入らない。

分際をわきまえるとか、分相応とか云っても、そもそも「身分」の何たるかが分からなければ分か
らないだろうし、70年前にはもっと身に染みて分かったことも、いまではチンプンカンプンだろう。

こうしてみると、時代小説を「時代そのまま」に書けば、それこそほんの一握りの好事家にしか分
からないだろうし、余りにいまの時代に擦り寄って「時代離れ」に書けば、好事家に叩かれる。
いつの時代になっても、この「そのまま」と「離れ」の微妙なバランス感覚のうえに時代小説・歴史
小説は成り立っているのだろうし、「いまどきの」という批判は古典ギリシャ・ローマの時代の
昔から老人派の繰り言だった。

尤も、僕自身は半世紀ほど前に、当時のオールキャスト・総天然色の忠臣蔵を見て以来、時代劇
映画の余りの時代離れにがっくりしてしまって、以来、見る気が失せてしまった。

コモンセンスと言い換えても、大方は良いが、いまの世の中、バランス感覚が失われているかな?!
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by agsanissi | 2006-01-25 19:13 | ミミズの寝言
2006年 01月 24日

視点を変える


国会図書館のビジョンに「真理がわれらを自由にするという確信に立って」と書いてある。
尤も、真理は宙に浮いたものではなく、人の心を介して働くものだから、認識されない真理は目前に
あってもなきがごとし。

見える見えないは、視力の問題もあるし、視点の問題もあるし、知識の問題もある。

視力や視点は、物理的・社会的環境や知識によっても制約を受ける。
微生物世界は、目前にあっても見えないが、それは視力と知識の問題。肉眼に見えないのは幸いだが、
一知半解の知識が災いして抗菌抗菌と騒ぐのも可笑し。

重力や空気は、それのない世界にいかなければ、たちどころには理解できないけれど、少なくとも
知識的には感じられるが、その感じ方は知識の幅と深さに制約される。

「人の心は金で買える」と豪語する人には、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末
に困るものなり」という人の心は、深みの見えぬ不思議の世界だろう。これは視力や知識の問題という
より、社会的経験と視点の問題。例えば、自然と独りで向き合うほどの真摯な経験をしてみれば、金
という社会的物神崇拝をあるがままの身の丈にまで縮小して見ることが出来たはずだ。

歴史的事象や社会的事象の多く・またはほとんど全部は、概念的・知識的なものだから、見えるはず
のものが見えなかったり、見えないはずのものが見えてしまったり、これはこれで中々厄介だ。
幻覚と言う心象風景は知的創造力の悪戯か?

目に薮睨みがあるように、視点を変えるのは良いが、視点が外れるのは考えもの。
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by agsanissi | 2006-01-24 14:44 | ミミズの寝言
2006年 01月 24日

メガネ


メガネを二つ使っている。
年齢のせいで、手元の本を読むにはメガネはいらない。昔の英語辞書のような「虫みたいな字」
(最近は「人に優しい」というのか、そういうのなくなったね!)にも苦労しない。
普段は、外出するときも、あんまり見えすぎると「世間は鬱陶しい」と思ってメガネをかけずに
出かけるが不便はない。
デスクトップに向かうときと車を運転するときだけメガネは必須だが、デスクトップ用と運転用で
は合わせてある焦点が違いすぎるため、かけかえると一瞬くらっとする。
目を瞑って視点を変えてやると直る。

ブログが難しいと云われてしまった。漢字ばかり使って...と云われたこともある。
漢字はあまり使わないようにしているつもりだけれど、それでも漢字には独特のイメージを伴う
から、風情を「ふぜい」と書かれても、僕にはフゼイがあるとは感じられない。

難しいと感ずるのは、それだけではない、多分、世間の人といくらか視点が違っているせいでは
ないかとは、昔から自ら感じている。一瞬くらっとする、その感じを難しいと思うのではないかと
推測するが、見当違いかしら。
目を瞑って、視点を意識的に変えてやると良いかもしれない。
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by agsanissi | 2006-01-24 05:56 | ミミズの寝言