農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

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2006年 01月 31日

道草を食う


輸入牛肉事件を書いたときに紹介した松永和紀さんのホームページに「ワキラボ」というのが
ある。開くと、いきなり「私は、中西準子氏を応援します」と出てくる。

僕も、「百姓の知恵袋」の参考資料の中で、環境問題などについて「勝手に推薦」として紹介
した(しかも間違いなく一級品と折り紙までつけた)わずか三つのWEBサイトの一つに中西さん
の「雑感」を挙げているくらいだから、注目して当たり前。

なにが問題になっているかというと、中西さんが「雑感」で書いた記事が名誉毀損に当たると
して京都大学の某教授から訴えられたという事件だ。「名誉毀損」の対象になった事柄自体は
両者の研究内容とはほとんど関係のない、ある意味で些事に過ぎない。
事件の詳細を知りたい人は
環境ホルモン濫訴事件:中西応援団のサイト
を見ればよいけれど、内容そのものにはそれほど実りのあるものではない。
むしろ問題は、ARG(ACADEMIC RESOURCE GUIDE)231号で編集子が書いているように、
「驚き、そして怒りを感じている。なぜ、批判された松井さんはいきなり訴訟という形に持ち
込んだのだろうか。なぜ自分の個人ホームページで反論を公表しなかったのだろうか。研究者
という職業人が「対抗言論」(More Speech)に訴えることなく、訴訟に持ち込んだことが哀し
い。自由な言論や論争に「萎縮効果」(Chilling Effect)を引き起こす訴訟を起こしたことが
哀しい」
という点にある。
一言で云ってしまえば、「研究者として情けない」ということだが、仮に「萎縮効果」が実効
を持つとすれば
、中世ヨーロッパの異端審問官、旧社会主義諸国の共産党思想統制委員会、
アメリカの赤狩りのマッカーシーなどと同じ役割を果たす小粒先駆者ということになる。

僕自身にしたところで、中西さんのHPほどの影響力もないから、相手にされる恐れはないけ
れど、質からすれば「有機農業30年の経験をつんだ農学博士の集大成」(偶然にも京都大学
農学博士だ)と銘打った本を、支離滅裂だの、お気楽だの、ノー天気だの、子供じみた誹謗だ
のと書いているのだから、名誉毀損で訴えられる可能性ゼロにあらずだ。つまり事件の本質的
中味は同じということだ。但し、筆者の人格的誹謗に当たるようなことは一言も書いてはいない
どころか、その基本的価値観は共有できるはずとさえ書いている。
中西さんの「雑感」にしたところで、人格的誹謗にわたることは何も書いていないと僕は判断
するが、その判断を国家権力に委ねようとは、研究者としての自殺行為に等しい。
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by agsanissi | 2006-01-31 10:58 | ミミズの寝言
2006年 01月 30日

有機物信仰?!


今日いただいたとびらさんのコメントは、ちょっと面白いことが書いてあるので、またまた
書きたくなった。

まず、「風来さんとは逆に」と書かれている点は、誤解されているのではないかと思うので、
この点の釈明から。斎藤さんの書かれていることは、まさにその通りで施肥設計に基づいて
戦略的に「有機物を圃場に入れる」必要があるのに、実際はそうではなくて「有機物は入れ
さえすればよいという安心立命がある」という意味で書いています。
ですからとびらさんの仰るとおり「きっちり土壌分析して、不足を補い過剰を減らしていく
ことの提唱」と受け取っていただいて良いわけです。
また「有機物は入れさえすればよいという安心立命」は、量と質はつねに一体として考えな
ければならないのに過不足関係なしに「入れさえすれば安心」という考え
は可笑しいのじゃ
ないか、という意味でもあります。以上は釈明。

次に、とびらさんの引用した「農業界には、有機は安全だ、いくら入れても大丈夫だという、
有機信仰がまかり通っているけど、土壌環境の破壊はこの無知な有機物の大量投入を続けた
結果だ 」という有機農業に対する批判の一節。
これは、いろいろな誤解のうえに、ちょいと見当違いな非難を有機農業にぶつけているので
書いておく。
多分、この人は明示的には書いていないけれど有機物を畜糞・鶏糞などの意味で使っている
のではないかと思う。あるいはもう少し広げて生物由来の肥料の意味だろうか。
しかし「無機物と有機物」にも書いておいたように、いまでは有機物にはそんな意味は全く
含まれていない。有機物とは炭素を含む高分子化合物のことで、そこに含まれている炭素と
窒素の割合(C/N比として表される)はいろいろ。
一方、ここに云う「土壌環境の破壊」で問題にしているのは、多分、いわゆる地球環境とし
ての「土壌汚染」を、具体的には窒素の過剰投与(あるいは投棄といっても良い)によって
硝酸態窒素やアンモニア態窒素が河川に流亡する問題やリン酸富化を問題にしているのだろ
う。とすれば、問題は「無知な有機物の大量投入」ではなく、有機物を家畜糞尿と誤解した
「無知」と家畜糞尿投入を有機農業と誤解した一知半解
の合作責任だろう。
例えば、普通の有機物、すなわち稲ワラ、麦わら、野草、木屑などをいくら大量投入(大量
投入といっても、普通の有機栽培ではそんなに大量投入できはしない)しても、作物栽培に
は不具合が出るにしても、それが即「土壌環境の破壊」につながるわけではない。

さらに「農業界には」と始まるけれど、日本の農業界では、幸か不幸か、有機農業は微々たる
存在。その中でも畜糞などを大量投入できる有機栽培農家はさらに限られる。とすれば「土壌
環境の破壊」を有機農業に求めるのは、お門違いもはなはだしい。
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by agsanissi | 2006-01-30 16:59 | ミミズの寝言
2006年 01月 30日

農の安心立命?!


一昨日取り上げたFood Scienceで齋藤訓之さんが「食の損得感情」についてというコラムを、
去年の6月から続けておられる。

僕は、栄養とか安全とか、ごちゃごちゃ云う前に「美味しく、満足して食べる」のが何よりと
自分では思っているから、単純に「食べられるものを食べれば良い」としか考えない。
誤解のないように書いておくが、栄養とか安全とか無視してよいと考えているわけではない。
ただ過度に過敏になったところで、日常生活では得るところが少ないと思っているだけだ。

齋藤さんは、第一回目で「人間は物質だけでなく意味を食べる」と書いている。付け加えれば
イメージで食べるといっても良い。
本当か冗談か、こんな話を聞いたことがある。ある家に、夕食に招待されて、ちょっと変わっ
た形の陶器に入れた野菜サラダが出された。聞いてみるとフランス旅行で、ふと街角の一角で
素敵な陶器の容れ物を見つけて買ってきた。野菜を盛り付けてみるとセンスが良いので...
と説明されたそうだ。ところがどう見てもそれは、ベッドに備える尿瓶にしか見えないので、
どうも食が進まなかったとのこと。逆に、まだこれは使用前ですから汚くはありませんといっ
て、尿瓶にコーヒーを出されても、あんまり美味しくは味わえないのかな。
つまり食べるという行為は、合理的であると同時に不合理的行為でもある。これは人間自身
がそうなのか?!
「損得感情」という題名の背後には、そんな思いが潜んでいるのかと勝手に受け取っている。

そんな斎藤さんが、26日付のコラムで
これまでの有機農業推進派は、まず認証され得る厳格な有機農法の普及ありきで、いわゆる
化学物質(化学肥料やほとんどの農薬)を圃場に入れないことを前提に普及活動を行ってきた
のではなかったか。しかし、何らかの化学物質を入れるか入れないかの問題はまず棚上げにし
て、有機物を戦略的に圃場に入れることの意義と方法の普及を先行してはどうか。
と書いている。
しかし、ある意味では、この点が最も曖昧で、有機物は入れさえすればよいという安心立命が
あるのではないか??
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by agsanissi | 2006-01-30 09:50 | ミミズの寝言
2006年 01月 29日

壁と道路


塩野七生さんの「ローマ人の物語」第10巻は、ローマのインフラストラクチャー、道路、橋、水道
などを、はたまた医療、教育までも扱っていた。中でも印象的なのは道路。

異邦人と接するに際して、ほぼ同じ時期に、中国人は長城を造り、ローマ人は道路を創った、と
云う意味のことが書いてあった。この違いが何に由来するのか分からないが、両民族の考え方の
本質的な差を代表しているように思う。
日本人は、異邦人との間に天然の海を持っていたが、海は時に壁にもなり、時に道路にもなった
歴史を振り返ってみると、道の時代と壁の時代を繰り返してきたようだ。いまは道の時代だが、
はたして壁の時代は来るのか? 海をひと跨ぎできる時代になっても、人は心の中に壁を作った
り、道を開いたりしているのではないかとは思う。

イタリア人がローマ人の後裔にふさわしいかどうかは分からぬが、中国人は、後裔にふさわしく
国内外の異邦人に、いまだに壁を作っているように感じられる。
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by agsanissi | 2006-01-29 05:38 | ミミズの寝言
2006年 01月 28日

輸入牛肉事件


事件には、それを醸成し・育てる、土壌があるし、また事件によってはそれが発覚し・摘発される
タイミングがある。

耐震強度の偽装やライブドアの株価操作の発覚は、それを育てた土壌のみならず、関係者の間で
は多分「何を今さら」という感があるのではないかと(勝手に)想像する。とすれば、なぜこの
タイミングにという問題もある。しかしこれは部外者には闇の中。

比べれば、「米国産子牛肉にせき柱が含まれていた」事件は、検疫検査で分かっただけでタイミ
ングの問題はない。
とすれば、この事件を育てた土壌は何なのか?だけが問題になる。
1.外交交渉でのアメリカにおける日本の重み
2.日本政府のとり組みの真剣度
3.アメリカの食肉解体現場の実態

2.に関連して「しんぶん赤旗」は、次のように書いている。
志位委員長が代表質問で取り上げた日本と同水準の安全基準である、全頭検査と全年齢牛での
危険部位の除去を米国が達成しない限り、輸入を再開すべきでない
ということについて、今後
も徹底して追及し国民世論にしていくこと、米国産牛肉の輸入再開を強行した小泉総理の責任
を明らかにすることなどを確認しました。


こういう点で、共産党は徹底して容赦のない立場をとる(厳しいほど良いというものではないが..)
ので引用した。しかし下線部の要求と今回の事件の発生の原因とは自ずから別問題であり、ある
意味では問題の単なるすり替えに過ぎない。「小泉総理の責任」というより、日米間で合意された
「輸入プログラム」が履行されなかった原因はどこにあるのか? という問題だ。

この点で、興味深い記事は25日付Food Scienceの「松永和紀のアグリ話●「と畜場ブルース」
に見える米国産牛肉の真実
」だ。
「と畜場」の実態を分析した本を取り上げ、その内容を紹介しながら、「輸入プログラム」の
不履行の起こる(起こらざるを得ぬ)背景について触れている。
食肉処理場の様子と大きく影響を受ける地域コミュニティを描いた第5章から第9章である。移
民が主たる労働力を担っており、管理側の米国人とは文化も言語も違う。使っているトイレか
らして違う。労働者のトイレは不潔極まりなく、管理者が一度も足を踏み入れていない証拠だ
と著者は書く。労働者と管理者のコミュニケーションは成り立たず、双方は互いに信頼しない。
労働者の賃金は低く抑えられ、入れ替わりが激しく技能を身につける間もない
。...
地域に食肉処理場ができると、マイノリティ人口が増加し文化、言語が多様化し、犯罪やホー
ムレスが増加するのだという。食肉産業の約8割が四大企業によって占められ、効率が優先し
猛スピードで作業が行われ、労働者も「消費」されている
 この本を読むと、日本が要求する「輸入プログラム」の遵守が、実際に働く労働者にまで伝
わり実行されるかどうか
、はなはだ疑問になってくる。

是非、全体を読まれるようお勧めする。
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by agsanissi | 2006-01-28 10:52 | ミミズの寝言
2006年 01月 27日

偏西風の蛇行


25日、気象庁は「平成17 年12 月の天候をもたらした要因について」を公表した。
地球大気の流れのちょっとした変動に伴う異変ですとは云わないけれど、要はそういうことだと
理解した。
地球大気とは、この場合、具体的には偏西風のことだが、この偏西風が地表との熱収支の関係で
いろいろに蛇行する。この蛇行の程度によって緯度30-60度付近(正確には知らない)の各地の
気象に蛇行の様相に対応したいろいろな異変が起きている。
この蛇行のイメージを、地球儀を使って描いている。

地球大気の大きな流れの中で、この問題を考えてみたいと思えば、
気象庁のレポート「日本の最近の異常気象に関連する大気大循環場の特徴」を見ると良いし、
この偏西風の蛇行に伴うちょっとした悪戯と異常気象の「異常」の意味を取り違えないためには
森田さんの「異常気象は「異常」じゃない!?」を読んでみるのも良いかもしれない。
冷害気象と偏西風の蛇行の関係に関心のあるむきは、東北農業センターの「偏西風を監視する
当たりを参考にすると良い。

巨視的世界のちょっとした異変が、微視的世界にどれほどの異変をもたらしているかは、新聞・
テレビが連日報じてるだろうけれど、微生物世界のことばかりを考えていると、自分の耕作活動
が微生物世界にもたらす「異変」の規模と内容のアナロジーに、つい関心は向かってしまう。
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by agsanissi | 2006-01-27 05:47 | 気象/季節メモ
2006年 01月 26日

ミミズの寝言


人の心は不思議なもので、時に、自ら作った枠の中に窮屈に自らを閉じ込めている。

「作業日誌」と銘打っている以上、こんな話題はふさわしくないなと、自ら「制限」すれば、
いまどき書くことは何もない。別段、書かずとも一向に構わないが、書くことで頭を活性化させる
とすれば、深呼吸のみならず、書くにこしたことはない。

そんなわけで、カテゴリーに「ミミズの寝言」を設けてみたら、自ら、無意識に設けていた「枠」
が取れてしまった。まず、テーマの枠が取れてしまった。次に、スタイルの枠が取れてしまった。
「寝言」だから、それこそ寝言だ。嘘は書かないが、うつつ言とは、自ずからなる差異がある。

裃を着けない、背広を着ない、いつでもありのまま、とはいっても、自ら設ける「枠」がないわけ
ではない。他人よりも「枠」の広さが、極端に広いに過ぎぬ。
ミミズが、いくらか開拓枠を広げてくれるか?

ご存知の方もいるだろうが、
ミミズの寝言も昨日のバランス感覚も、徳富蘆花の「ミミズのたわこと」や森鴎外の「歴史其儘と
歴史離れ」のもじりだ。こんな名作も、いまでは余り読まれないがいずれも「青空文庫」で読める
のは幸いだ。
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by agsanissi | 2006-01-26 06:28 | ミミズの寝言
2006年 01月 25日

バランス感覚


何かのコラムに「最近の時代劇は酷い、時代考証がまったくなってない」てなことを書いていた。

どんな風に酷いのかまったく知らないが、「最近の」というくらいだから、昔の時代考証はもっと
良かったということだろうか。

それで思い出したが、もともと1933年と1939年に出版された三田村鳶魚の「大衆小説評判
記」と「時代小説評判記」は、当時評判の時代小説、大仏次郎の『赤穂浪士』、白井喬二の『富士
に立つ影』、吉川英治の『宮本武蔵』、『鳴門秘帖』、林不忘の『大岡政談』、中里介山の『大菩
薩峠』、佐々木味津三の『旗本退屈男』、子母沢寛の『国定忠治』、島崎藤村氏の『夜明け前』など、
今に残る「名作」を、時代考証がなってないとして、それこそメタメタになで斬りにしてしまった。
どのくらい凄まじいかというと、お蔭で三田村鳶魚のほうが逆に出版社から干されてしまったとい
うくらいに凄かったそうだ。両評判記とも、その後復刻版が出され、中公文庫にも取り入れられたが、
今では古本でしか手に入らない。

分際をわきまえるとか、分相応とか云っても、そもそも「身分」の何たるかが分からなければ分か
らないだろうし、70年前にはもっと身に染みて分かったことも、いまではチンプンカンプンだろう。

こうしてみると、時代小説を「時代そのまま」に書けば、それこそほんの一握りの好事家にしか分
からないだろうし、余りにいまの時代に擦り寄って「時代離れ」に書けば、好事家に叩かれる。
いつの時代になっても、この「そのまま」と「離れ」の微妙なバランス感覚のうえに時代小説・歴史
小説は成り立っているのだろうし、「いまどきの」という批判は古典ギリシャ・ローマの時代の
昔から老人派の繰り言だった。

尤も、僕自身は半世紀ほど前に、当時のオールキャスト・総天然色の忠臣蔵を見て以来、時代劇
映画の余りの時代離れにがっくりしてしまって、以来、見る気が失せてしまった。

コモンセンスと言い換えても、大方は良いが、いまの世の中、バランス感覚が失われているかな?!
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by agsanissi | 2006-01-25 19:13 | ミミズの寝言
2006年 01月 24日

視点を変える


国会図書館のビジョンに「真理がわれらを自由にするという確信に立って」と書いてある。
尤も、真理は宙に浮いたものではなく、人の心を介して働くものだから、認識されない真理は目前に
あってもなきがごとし。

見える見えないは、視力の問題もあるし、視点の問題もあるし、知識の問題もある。

視力や視点は、物理的・社会的環境や知識によっても制約を受ける。
微生物世界は、目前にあっても見えないが、それは視力と知識の問題。肉眼に見えないのは幸いだが、
一知半解の知識が災いして抗菌抗菌と騒ぐのも可笑し。

重力や空気は、それのない世界にいかなければ、たちどころには理解できないけれど、少なくとも
知識的には感じられるが、その感じ方は知識の幅と深さに制約される。

「人の心は金で買える」と豪語する人には、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末
に困るものなり」という人の心は、深みの見えぬ不思議の世界だろう。これは視力や知識の問題という
より、社会的経験と視点の問題。例えば、自然と独りで向き合うほどの真摯な経験をしてみれば、金
という社会的物神崇拝をあるがままの身の丈にまで縮小して見ることが出来たはずだ。

歴史的事象や社会的事象の多く・またはほとんど全部は、概念的・知識的なものだから、見えるはず
のものが見えなかったり、見えないはずのものが見えてしまったり、これはこれで中々厄介だ。
幻覚と言う心象風景は知的創造力の悪戯か?

目に薮睨みがあるように、視点を変えるのは良いが、視点が外れるのは考えもの。
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by agsanissi | 2006-01-24 14:44 | ミミズの寝言
2006年 01月 24日

メガネ


メガネを二つ使っている。
年齢のせいで、手元の本を読むにはメガネはいらない。昔の英語辞書のような「虫みたいな字」
(最近は「人に優しい」というのか、そういうのなくなったね!)にも苦労しない。
普段は、外出するときも、あんまり見えすぎると「世間は鬱陶しい」と思ってメガネをかけずに
出かけるが不便はない。
デスクトップに向かうときと車を運転するときだけメガネは必須だが、デスクトップ用と運転用で
は合わせてある焦点が違いすぎるため、かけかえると一瞬くらっとする。
目を瞑って視点を変えてやると直る。

ブログが難しいと云われてしまった。漢字ばかり使って...と云われたこともある。
漢字はあまり使わないようにしているつもりだけれど、それでも漢字には独特のイメージを伴う
から、風情を「ふぜい」と書かれても、僕にはフゼイがあるとは感じられない。

難しいと感ずるのは、それだけではない、多分、世間の人といくらか視点が違っているせいでは
ないかとは、昔から自ら感じている。一瞬くらっとする、その感じを難しいと思うのではないかと
推測するが、見当違いかしら。
目を瞑って、視点を意識的に変えてやると良いかもしれない。
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by agsanissi | 2006-01-24 05:56 | ミミズの寝言