農のある風景/作業日誌/ようこそ!!荒木農場へ

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2007年 07月 30日

ソバ

c0048643_19102446.jpg東23、播種から五日目、早くもほぼ出芽揃い。

26日播種の東7のソバも出芽揃いに見えるが、やや
揃いが悪いようにも見える(7/31追記)。
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by agsanissi | 2007-07-30 19:12 | ソバ/ナタネ
2007年 07月 30日

政治的天気

16.2/19.2度、日照ゼロ、濃霧注意報と低温注意報。

僕は、政治は天気と一緒だとしか見ていない。この考えには風土の影響が大きい。東北北部
沿岸地方の気象条件は、かなり厳しい。歴史的に冷害の常襲地帯で、食糧生産が絶対的に
不足する時代には飢饉の常襲地帯だった。農民・漁民等一般の庶民は「生き延びる」のに
必死で「豊かに生きる」なんてのは夢の夢。この記憶は、60代70代以上の世代には、今でも
しっかり染み付いている。沿岸部の稲作農家を廻って去年の古米を買い集めている穀物業者
が話していたが、毎年七月中頃からお盆の時期にかけて買い集めるが、今年はまだ一粒も
集まらないそうだ。七月前半にヤマセが入り低温注意報が続いたせいで、今年の米が取れる
かどうかの懸念で売り控えているためだ。それほど冷害の辛い記憶が染み付いているし、冷害
に備えている。しかしこの経験は、僕にとっては、農業で生きていこう決めてからの十数年程度
のもので、政治についての考えは、その前の数十年の経験が土台になっている。

農業は政治からも、天気からも影響を受ける。だからといって天気に期待して経営方針を決め
る訳にはいかない。どちらかといえば最悪の場合を想定して、良ければそれに越した事はない
と考える。政治についても、ほぼ同じ立場を取っている。
政治に何かを期待してはいないし、何かを期待して特定の政党を選んだこともない。農業だけ
に限定して考えれば、選べないこともないが、政策全体の整合性や政党そのものの性格を
含めて考えると選べないし、選ぶに値する政党もない。尤も、代議政治の原則は消去法で最悪
のものから消去していって、最後に残ったものを選ぶほかはないが、それであっても国際社会
に於ける日本の立場なども含めて考えると、やはり天気と一緒と見ておくに越した事はない。
何かを期待すれば、必ず裏切られる。しかし天気には、人一倍関心を払っているし、その流れ
の変化を読むことには人一倍努力を払っている。政治も同じこと。だから政治的無党派層に
属するが、政治的無関心層ではない。というより百姓になる前の最大の関心事は政治だった。
半世紀近く前には、政治的理想主義を抱いていたこともある。こうあってほしいとか、こうしよう
とかではなく、はっきりこうあるべきだという理念を持っていた。しかしやがて政治的理想主義
は、それがどんなに立派な看板を掲げていようとも、必ず一般庶民には耐え難い災厄をもたらす
以外の何物でもないことを悟って以来、政治には寛容と良い意味での無節操(と云って悪けれ
ば柔軟性)の精神が不可欠だと考えるようになった。以来、政治は僕にとって自ら演ずる対象
ではないのはもち論、研究する対象ですらなく、専ら観察する以外の如何なる関心も持って
いない。「天気と一緒だ」とは、そういう意味だ。

今回の参議院選挙で、自民党が後退するのは周知の事実だった。しかし過半数すれすれ、
無所属や小政党を取り込んでギリギリ過半数に達するか達しないかの程度、言い換えれば
民主党がこんなに躍進するとは考えていなかった。
民主党の躍進を支えたのは、自民党支持層の内自民党に投票した人がわずか6割強に留ま
り、約四分の一が民主党に投票したこと、また無党派層の過半数が民主党に投票したのに
対し、自民党に投票したのはわずか14%程度に留まった、この流れの変化である。しかし
この流れがまだ大きなうねりになっていない事は、投票率がさほど伸びていないことを見れば
分かる

一人区での自民党の惨敗に象徴されるように、主に農村部で従来の自民党支持層が民主党に
鞍替えし、都市部の無党派層が民主党に流れたことが五選挙区で二議席取る躍進につながった。
結果的に、自民党の歴史的な惨敗を読み切れなかった要因は二つあると思っている。小泉さん
は「自民党をぶっ壊す」と云っていたが、実際、従来の派閥を梃子にした集票システムが機能
しなくなってしまい、代わって小泉的政治マジックで飛躍的支持を獲得した。律儀な番頭タイプ
の安部さんには、こんな芸当は望むべくもなく、せいぜい仲良しクラブのお友達を庇ってともに
討ち死にするくらいが関の山。要するに小泉マジックによる集票方式が、それにあやかるどころ
か全く裏目に出たこと、これが一つ。
大規模経営に的を絞った品目横断的経営安定対策と小規模農家も含めた集落営農などの
自民党の農政が、農村部で全くそっぽを向かれ、反対に販売農家に(生産費と市場価格の
差額を)直接支払う「戸別所得補償制度」の創設を謳った民主党の農業政策が、広範な支持
を獲得したこと
。言い換えれば農村部での自民党に対する憤りまたは落胆が予想以上に厳し
かったこと、これが二つ目。
それで、これからどうなる?もともと政治的才覚と指導力を欠如しているが、参院で多数派を
失ったことによる政治的混迷。国際的には、少なくとも北東アジアでは米国は対中国の覇権
争いにここ数十年全神経を注がざるを得ず、その争いの波間に日本は浮かぶか沈むかの
瀬戸際にある
。国内政治に奔命に振り回される安部内閣にもち論、それに対処しうる能力は
期待すべくもない。
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by agsanissi | 2007-07-30 18:45 | ミミズの寝言
2007年 07月 28日

土を考える/化学農法・続々々々/13

16.1/23.8度、日照2.9時間、前線は太平洋南岸に後退したまま、東北地方は日本海
から三陸沖に抜ける低気圧や寒気の影響で二三日は、やや不安定な天気が続く見通し。
梅雨明けは、まだ宣言されていないが、この不安定な気圧配置が解消すれば、このまま
梅雨明けになるのかな?
*********************
前回分に、そのまま追加書き足しをするつもりだったが、長くなりすぎるので別項を立てること
にした。

物質循環という視点から見て、最も本質的と思われることのみを指摘しておく。植物の生体
を構成する元素は16(乃至17)で、このうちの3元素、即ち炭素、水素、酸素は生体量の
99%を占めるが、大気及び水で供給される。残り13(14)の内、三大栄養素とされたチッソ、
リン、カリのほか、カルシウム、マグネシウム、イオウを含む六元素が比較的大量に要求される
成分、その他の7(8)が微量元素といわれる。カッコ内は、最近になってニッケルの必須性が
新たに注目され、+1とした。きわめて大雑把な分け方をすると、大量元素は生体を構成する
元素。これに対して微量元素は酵素の活性基として必須の元素。酵素は代謝活動のバランス
を調整する機能を果たしており、活性基とは酵素が酵素としての役割を果たすための活躍の
基である。
植物(及び動物)が生きていくためにはエネルギーが必要である。土中に根を伸ばし、空中に
茎を伸ばすためにも、土中から養分を吸収し、栄養分を体内に循環させるためにもエネルギー
が必要である。土中及び大気中から吸収した元素からエネルギーを取り出すことを異化、その
エネルギーを使って吸収した元素から生体を作ることを同化という。同化及び異化を合わせ
て代謝活動という。同化・異化のバランスはもち論、同化作用のバランス(植物生体の葉・茎・
根、花、実など各部への栄養分の配分や生育ステージに合わせた配分などの調整)や環境の
変化に応じた生体の変化などの諸活動をバランスよく調整する役割を果たしているのが酵素
であり、その酵素の活動源になっているのが微量元素と思えばよい。必要量はきわめて微量
だが、それが不足すれば生体の各種活動や反応に狂いが生じてくる。病気または病気に犯さ
れやすい状態、虫等に攻撃にされやすい状態または生体の防禦システムが働きにくい状態と
思えばよい。
チッソ、リン、カリなどの大量元素のみを投入して作物栽培を続ければ、土中の微量元素は
不足する。特定野菜のみを継続的に栽培すれば、その野菜の要求度に応じて特定微量要素は
急速に消耗する。一方、投入された肥料は全部は吸収されず、大量元素のみは土中に蓄積さ
れる。土中の栄養バランスは急激に変化し、かつその変化に応じた様々な化学変化が引き起
こされ(これは同時に土壌微生物の代謝活動の場であるから、微生物の量及び質も変化す
る)、作物の栽培環境は変化する。作物とその栽培環境の適合・不適合は、ある範囲内であれ
ば適応出来るが、野菜連作と肥料の大量投入で容易に不可逆点を超える、これが第一。
大気・土壌・海を通して物質循環のサイクルは巡っているが、特定肥料要素の大量輸入や
投入、また作物の大量輸入は、物質循環という視点から考えれば、物質循環サイクルに著しい
偏倚を引き起こすことになる。食糧の大量輸入は、食糧を構成する元素の輸出国から輸入国
への移転であり、一方的かつ継続的移転が地球規模の物質の大循環サイクルにどんな影響を
及ぼすか、これは化成肥料の利用とは直接には関係ないが、人体または家畜を通して糞尿と
して土壌に還元される以上、土壌の栄養バランスに深刻な影響を与えることは間違いない、
これが第二。
まとめると、それぞれの風土的環境の中で土壌が本来持っている生産性にはある限度がある。
その限度は、無機的・有機的に限らず肥料を利用することである程度広げることが出来るが、
土壌の復元力・緩衝力・浄化力を超えて広げれば、急速に疲弊する。化成肥料の利用は、こ
の土壌の復元力を超えて、容易に不可逆的に変化させ得るところに本質的欠陥がある

逆に、二圃式輪作、三圃式輪作は自然の復元力に時間的余裕を与えるものであり、ノーフォ
ーク式輪作はダイズ作などを取り入れ、根粒菌の働きで空中窒素を固定化して土壌の富化を
はかり自然の復元力を促進させようとするものである。
化成肥料という外部的投入物で、自然の枷を取り払うことで、一見、土壌の生産力を恣に制御
しうるかに見えたが、結局、土壌バランスの急激な変化による逆襲を受けざるを得ぬということではないか。この点、福岡さんの云う作物は肥料で取るのではなく、土で取るという考え方が
基本的には貫徹されるということではないか。
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by agsanissi | 2007-07-28 23:15 | 考える&学ぶ
2007年 07月 28日

土を考える/化学農法・続々々/12

どんなに優れた意見も、必ず時代の刻印を背負っている。
有吉佐和子さんの「複合汚染」が、行過ぎた科学主義に警鐘を鳴らし、人々に公害や環境破壊
のもたらす災厄に真摯な目を向けさせ、それを事実上放置した政府、科学の名において擁護
した科学者の欺瞞を引ん剥くのに、70年代初頭に果たした功績は揺るぎない。
僕は、もはや公害・環境問題を放置することは許されないという世論を確乎たるものにする上で
果たした有吉さんの偉大な功績を忘れない。しかし個々の具体的問題では、発言の社会的・
技術的条件を忘れて、その結論だけを担ぎまわれば、どんなに一面的で誤った方向に突っ
走る可能性があるかということを、少々過激に・演説調に表現するために、有吉さんを貶める
ようなことを敢えて書いた。そして卑小な追従者は、概ね社会的・技術的条件を忘れて、結論
だけを有難がるのに忙しい。

さて、もとに戻ろう。僕は何かを主張したいと思っているわけではない。ただ考えている。
思考錯誤の過程であり、一生、それで終わるかもしれない。僕は、幸いにも科学者ではない
から、何かの学説を立て、それを後生大事に守らなければならぬという詰まらぬ意地を張る
必要もない。ただ考え、自分の思いに沿って耕し、畑を観察し、土を思い・考えていれば良い。
間違ったと思えば、誰憚ることなく、訂正すればよいし、訂正しなければ自分の首を絞める
だけだ。そのための思考及び試行錯誤の過程だ。農業を自然の大地を実験場とする科学的
営みと心得ているが、それでも傲慢な科学者のように、時に時代を深刻な災厄に陥れる程の
無謀なことはやっていないから、間違えば深刻なしっぺ返しを先ず受けるのは自分だから、
多少は大目に見てもらえるだろうか。
「耕す生活」の「連作障害対策としての輪作」の中で引用したことのある「図解土壌の基礎
知識」(参照)が「化学合成肥料ばかりを使った場合の弊害」を簡単に、分かりやすくまとめて
いる。
有機物の消耗、土壌の酸性化、酸性化に伴う不活性化・活性化(例えばリン酸が土壌粒子と
結合して作物が吸収できない状態になったり、逆にアルミニウムやマンガンが活性化して作物
に過剰吸収されたり)、微量要素の欠乏、土壌動物の偏りなどだろうか。但し微量要素や土壌
動物(殊に微生物について)は、初版出版当時(1974)には研究上の制約もあって、さほど
その重要性については触れられていない。
その上で、土壌を保全するためには、西欧の昔の二圃式輪作、三圃式輪作、ノーフォーク式
輪作が如何に合理的な作付け体系か、また有畜畑作農耕の果たした役割が大事だったかを
説いている。輪作体系が打ち捨てられ、有畜畑作農耕が断ち切られ、化成肥料にのみ依存
した野菜の連作、これを過剰に促進した畑作農耕の軽視(小麦・ダイズは安い外国産を輸入
すれば良い)と主産地形成政策。要するに科学と政治の合作によって土壌の荒廃は促進され、
百姓はただその舞台の上で、舞台と観客にマッチした踊りを踊るしかなかった。

なぜ化学肥料ばかりを使うとまずいのか?
こういうことではないかなと、僕が、今の時点で考えていることを最後に書いておこう。
自然界には物質循環がある。自然界を構成するいろいろな物質が結合したり、離合したりして、
その姿態を変容させる過程である。酸素、炭素、窒素などの元素が巡る姿である。自然界に、
やがて生物が現れ(微生物、動物、植物)、物質循環に代謝循環という新たな、特異な循環
過程が参加した。代謝循環とは、言い換えれば生命活動である。生命活動であるとはいえ、
それは物質循環の一部であり、大循環サイクルの部分循環・小循環サイクルである。
この部分循環サイクルが参加したことで、大循環サイクルの過程には変化はなかったが、その
サイクル・スピードが加速された。そこに人間という高度な意識を持った動物が参加することで、
このスピードは異常に加速され、かつ様々な偏倚現象を引き起こした。とはいえ人間の自然界
でのすべての営みは、自然界の物質循環の一部であり、大循環サイクルを一時的に撹乱させ
る小循環サイクル以外のなんでもない。
このイメージを前提にして作物栽培を考えてみる。
自然の土壌には、その風土的環境に応じたそれぞれの生産力がある。土壌の肥沃度といわれ
る。肥料は、この自然によって課せられた土壌の制限性にある程度の余裕を与えてくれる。
しかし雑草や土壌動物の死骸の肥料化を待つにせよ、人糞尿や家畜糞尿を利用するにせよ、
手工業的規模に留まる限り、自然による土壌の制限性に対する自由度は高が知れている。
これは、言い換えれば、海や土の持っている復元力を、本質的に撹乱させるほどのものでは
ない。土壌学の言葉で言えば、土壌の緩衝能力・解毒作用を失わせるほどのものではない。
しかし現代科学とその技術は、自然の大循環サイクルを復元不可能、少なくとも人間的レベル
の時間サイクルでは復元不可能なほどの不可逆点を超えうるほどに高度化した

作物栽培に関して云えば、土壌の肥沃度の機能的要素と思われるチッソ、リン酸、カリを抽出
し、それを投入することで作物生産性を飛躍的に拡大した。しかしそれは当初錯覚したように
土壌の肥沃度そのものを高めたわけではなく、土壌の能力を絞り尽くすことで、却って土壌を
疲弊化させるものでしかなかった。
なぜそうなるか、ならざるを得ないかの分析は科学に任せる。取り敢えず作物栽培における
微量要素、土壌微生物の本質的役割の軽視を指摘できる。(続く)
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by agsanissi | 2007-07-28 07:00 | 考える&学ぶ
2007年 07月 27日

土を考える/化学農法・続々/11

前回言及した「化学合成肥料ばかりを使った場合の弊害」について、簡単にまとめておく。
まず、有吉佐和子「複合汚染」から、
問題はしかし、機械の完備だけでは解決しない。耕転機で、どんなに田畑を耕しても、
化学肥料をまけば、土はカチカチの固りなってしまい、大雨は作物の根を流すし、旱ばつには
作物の根をひからびさせる原因になる。
土が死んでいる
という言葉が出るほど、農村をまわっていてよく聞く言葉はなかった。
私は最初のうちは、それが殺虫剤、殺菌剤、除草剤によるものかと思って聞いていたのだが、
もちろんこれらの農薬の強い毒性が土に与える影響は大きいけれど、もっと根本的に云えば
、多年にわたる化学肥料の、きわめて多量の使用が、土の本来的に持っていた活力を失わ
せている事実はどうしても見逃せなくなった

かなり衝撃的なルポ風の文章になっている。
僕は、有吉さんの作品は好きだ。筆力には敬意を払ってもいる。「和宮様御留」など、着想は
面白いが全体の構成はやや破綻している、それを細部の緻密な描写で支えている、それほど
描写力に敬意を持っている。しかし「複合汚染」は駄作だ。僕が百姓だからそう思うわけでは
なく、新聞連載当時から読むに耐えない、「朝日」のヤラセに乗せられたのじゃないかとさえ
考えた。それでも、その筆力と相俟って、「複合汚染」は広範な社会的影響力を発揮し、全体
としてこの本は公害・環境問題に深刻な警鐘を鳴らす意義を持っていたと思う。同時に
「反科学主義」に油も注いだ。
前に書いた通り「その責任は百%科学の側にある」と考えているから、有吉さんの責任がどう
とか書くつもりはないが、軽薄なマスコミの風潮と相俟って、科学的問題を情緒的に捉える悪弊
をながした
。「化学肥料をいっさい使わない」ことに何か積極的意義があるかに思わせる情緒的
雰囲気を形成する礎石の一つにはなった。

科学的には、こんな記事は取り上げるに値しないほどの愚論だ。しかし実際には稚拙で生硬
な表現力の科学論文よりこんな記事の方が遥かに絶大な影響力と知的喚起力を持っている。
まさかコンクリートじゃあるまいし、それだけの要因で、撒けば「土はカチカチの固り」になるはず
がない。
ところが、まず衝撃的な事実を挙げる。次に「多年にわたる」「きわめて多量の」と続ける。
しかし農業の現場を知らない人の頭には「化学肥料をまけば、土はカチカチの固りになる
という半可通の知識だけが定着する。
仮に、化学肥料を「多年にわたって」「きわめて多量」にまいて、土がカチカチの固りになった
とすれば、それには次のような社会的・技術的条件が前提としてあったはずだ。
・畑作の後退と消滅、これで畑への有機物の還元が急速に・かつ決定的に消滅した。
・主産地形成政策の全国的普及、これで野菜作の連作が始まり、有機物還元の消滅と相俟っ
て土壌の劣化を促進した。言い換えれば「土の本来的に持っていた活力を失わせ」ることに
つながった。
・野菜の連作が石灰の多用を促進した、石灰は時に土中で水を吸収して文字通りのコンクリ
ートになった。
取り敢えず、このくらい指摘しておけば充分だ。

事実の、頭の中だけでの短絡的な接合は、必ず間違いを犯すことを繰り返し指摘してきた。
例えば、肉を食う⇒森を伐採⇒砂漠化と、短絡的につながるわけではない。仮にそのような
つながりが出来たとすれば、必ずそれを必然化する社会的・技術的条件が前提としてあるはず
だ。それを忘れて頭と尻尾だけを取り出せば、漫画的な愚論を平気で・真面目腐って言い出す
ことになる。
核分裂によって人類が有史以来、手にしたことのないほど巨大かつ強力なエネルギーを取り
出すことに成功したからといって、それが即戦争で核兵器使用につながるわけではない。
多くの中間項、この場合には社会的・技術的条件のみならず、政治的・経済的・軍事的・思想的
条件等が介在するはずだ。
同じことは、より単純であるにせよ、化成肥料をまく⇒土が死ぬ、カチカチの固りになる
についても指摘できる。要するに両者の間には、いろいろな中間項、社会的・技術的条件が
あり、それを忘れて両者を短絡的に接合すれば、どんなに筆力があろうと漫画的愚論を書く
ことになる。

ひとつの経験的事実だけ指摘しておく。
僕が14年前、現在の開発農地に入植した当時、普代に行って最初に会った普及所の所長は
「風来さん、こんなところで農業やるより、焼き物やったほうが良いよ」
と云った。赤土の粘土質土壌で、ひと雨降ればドロドロの泥濘、乾燥して固まればまさに
焼き物同然の固まり。手で大根のタネを植えれば、百メートルもやれば指先の皮が剥ける。
二年目、ディスクプラウをかけても、いまでは15-20センチ入るディスクの刃が10ミリも
入らない、まるでコンクリートのようだった。それは多年、化学肥料を使ったお陰ではなく新開発
の粘土土壌だったからだ。
僕は、そこに入植して、14年間農業をやってきた。二町歩余から始めて三十町歩まで拡大し
た。最近また、年齢その他を考慮して縮小均衡に持っていく方向に転換し、十七町歩まで減ら
した。更に十町歩程度まで減らして生活できる程度にしたいと思っている。誤解して欲しくない
が、稼ぎたいのではない。気象条件が余りに厳しくて、畑作経営では一般的には十町歩程度
ではまともに生活していく見通しが立てられないのだ。
ジャガイモ、小麦、ソバ、ダイズ、ヒマワリ、ナタネ、人参等を作付けしてきた。
この間、肥料として基本的には化成肥料しか使っていない。堆肥は、自分の費用では経営的
に購入して投入するのはほぼ不可能なので、14年間に二度しか入れていない。
僕は、基本的に二つの目標を持っている。
・作物を作りながら畑を作る
・ミミズの棲める畑にする
それで、この14年間に「土はカチカチの固り」になったか??
全く逆だ。カチカチの固まりが、ほかの畑に比べ最も緩衝性のある土になりつつある。相変わ
らず雑草は多いが、作物はまともに取れるようになったし、品質は高く評価されている。ひと雨
降ればドロドロの泥濘と化したかつての惨状はなくなったし、僕に「焼き物」を薦めたかつての
所長は、定年退職するに際して僕に陳謝の頭を下げた。
だから僕は、有吉さんのために、あんな一面的デタラメの駄作文を書いたことを惜しむ。

化学農法は、これで終わろうと思ったがもう一回書かなければならなくなった。
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by agsanissi | 2007-07-27 04:22 | 考える&学ぶ
2007年 07月 27日

ソバ播種

15.9/28.1度、日照12.1時間、この時期の最高日照時間のようだ。さすがに暑い。

c0048643_23533382.jpg今年は12連で播種する。別段、何連にするとは必ずしも
決めていないが、去年の記録を見たら、やはり7/26に
播種している。その中に、
覚書データ/播種機メモリ 27(7.1キロ/反)
とあって、ふと何連で播種したか気になったが、記録され
てない。それで今年は写真を載せておいた。

通常は、この後ろに肥料攪拌用のハローをつけて引くが、今年はナタネの残カンが多く、
ハローで、そのまま引きずる可能性があるので、ハローは取り付けなかった。覆土に影響が
あるかどうか(出芽率)
、多分ないと思う。
ちなみに今年は播種機メモリ60で8キロ/反だが、メモリの設定に何故これほど違いがあるか、
それで去年は何連で播種したのか気になったが記録されてない。そのときはどうでもよいと
思っても、後から意味を発見する場合もあるから、記録は一見つまらぬことも残すに限る。
(ソバの充実度、要するに密度に差があった可能性が在るが、播種メモリにこんなに差がでる
かどうか気になるところ。ナリばかり大きくて中身が充実してない可能性

ソバ播種は、昨日の分を含めて
東23、1.8ha
東8、1.436ha
ソバの播種量は8キロ/反だが、肥料は結果的に窒素分で平均2.8キロ/反になった。
肥料部が詰まっていたのか、多少不具合があったようで、予定通り落ちないで、結果的に
やや少なめになった。均等に落ちていない可能性があり、生育ムラがでるかどうか興味
深いところ。

孫たちは、去年は25日に来ているが、今年は26日に来た。その付き合いもあるから、多少、
更新は停滞気味になる可能性あり。
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by agsanissi | 2007-07-27 00:12 | ソバ/ナタネ
2007年 07月 25日

土を考える/化学農法・続/10

有機農法の作物を宣伝するのに、直接に「有機農法です」という場合と「化成肥料や農薬を
一切使わない」と化学農法のアンチテーゼとして説明する場合とがある。有機農産物を公式
に名乗るには法の網が被せられ、小煩い認証制度と課徴金の関門が控えているから有機
農産物を気取るには化学農法の敵役を名乗るのが一番手っ取り早い。
しかし有機農法は、本当に化学農法のアンチテーゼでなければならないのか?或いは化学
農法を全面的に否定しなければ有機農法とは云えないのか
(有機農法について協議する何
とか専門家会議はこういう立場だ、こんな非科学的立場に立って「専門家」とは笑わせるよ)?
この点は、後に改めて考えてみるけれど、今回は「化成肥料や農薬を使わないこと自体に」
価値があるのかどうかを考えてみよう。

この問題は、一年半前に「有機農業コツの科学」の書評めいたものを10回書いたときに、
その最終回「学ぶということ」(参照)の中で「農業は、本質的に化学合成肥料や化学合成農薬
を忌避すべきものなのかどうなのか」という形で提起したことがある。農産物の安全及び環境
保全という視点からの一般的考え方については、そこで既に書いたので参照して頂きたい。
例えば、何らかのアレルギー疾患や農薬過敏症の場合には「農薬を使わないこと自体」に価値
はあるが、もち論、それは個別に対処すべき問題で一般的に忌避すべき理由にはならない。
天然には存在しない化学合成品薬品を使うべきではないという意見があるが、天然の猛毒は
幾らもあるし、そもそも毒物学は天然の毒物の模倣から出発しているのをご存じないのか。
この点、薬剤が天然か合成かは、それを利用した農産物の安全性とは何の関係もない。また
「合成薬剤」そのものを食べるわけではないから、農薬の残留性だけが問題になるが、それを
ゼロにする要求は、現代社会では空気・水・衣食住など環境そのものから口や皮膚を通して
化学合成物(医薬品もそうだ)を摂取する機会に不断に曝されている以上、不当に理不尽で
過大な「安全志向」でしかない。尤も、そのために特別料金を支払う人がいても良いし、それに
応えようとする生産者がいることは一向に構わないが、それは単なる自己満足(と云って悪け
れば、社会的要求水準を超えた贅沢)以外のなんでもない。
ひと頃、農家は出荷用と自家用の野菜を分けて、自家用には農薬を使わないのに出荷用には
バンバン使うなどの悪意に満ちた話が実しやかに喧伝されたことがあるが、そんなきめ細かい
ことをやってる農家なぞ、僕はついぞ見たことがない。まして、この数年、農薬使用基準は益々
厳しくなり、国内農産物に関する限り使用基準に沿った農薬施用によって「食の安全」が脅か
される可能性など、ほぼゼロに近い。

化成肥料はどうか?
農薬の場合、多少とも、安全性と関わると考える人はいるにしても、化成肥料の場合はこれを
「一切使わない」ことに、どんな意義と価値があるのか?僕は、この十数年、ずっとこの問題を
考え続けているし、なにか納得のいく説明があるかどうか探しているが、皆無だ。
化学合成肥料ばかりを使った場合の弊害を指摘する論文は幾らもなる。この問題は、ある一面
では機能的要素を抽出した代替物の寄せ集めを以て本来のものに置換できるかという問題、
簡単に云えばイミテーションは本物に代替できるかという問題に帰着する。
「イミテーション文化」で書いたように、天然のものには、その「機能的要素」と思われるものだけ
を抽出した代替物を以てしては換え難い価値がある場合がある。しかしそれを以て
「天然・自然」の看板を有難がるのは、現代のアニミズムに過ぎない。
例えば、普代は三陸若布の特産地の一つだ。若布にも、天然物と養殖物とがあって、かつて
漁師たちは生長が早いということで出荷用に養殖若布を栽培していても、自分では「養殖物な
んか食えるか」と云っていたものだが(僕は負け惜しみじゃないかと思って聞いていたが)、
最近は天然物は固くて美味くないという声が圧倒的だ。それは作物の野生種と栽培種の違い
のようなもので、殆どの人は栽培種に軍配を上げる。
では栽培種と野生種の違いと、例えば有機質肥料と化成肥料との違いとは、本質的に違うと
云えるだろうか?違うとすれば、何が違うのか?
栽培種も野生種も、「ともに自然のものだ」が、有機質肥料は自然のものだが、化成肥料は
化学合成品に過ぎない、と果たして云えるか?
野生種の人為的選択を通して食用・栽培に適した種を育成した以上、「ともに自然のもの」とは
云えないし、栽培種は野生種にはない長所・短所を持っている。同様に自然そのままの有機質
肥料はないし、自然物に由来しない化成肥料もない。
この場合、問題は天然か合成かではなく、合成対象にされた「機能的要素」が充分かどうか
ということではないのか?
化学肥料の生産高を見れば分かるように、昔は、チッソ、リン酸、カリなど単肥が殆どだった。
60年以降、単肥に代わってチッソ、リン酸、カリを一定割合で配合して化学的処理を施した
化成肥料が伸びてきた。最近は、三大要素だけではなく、様々な微量要素を加えた化成肥料
や作物の生育ステージに合わせて肥料成分が溶出するように工夫されたコート肥料、有機質
肥料を加味した肥料、有機質肥料をペレット化した肥料など様々なものが工夫・開発されてい
る。更に様々な微量要素や各種有機酸などを供給する葉面散布剤、微生物資材なども開発
されている。一方、養鶏や畜産業の糞尿処理の規制が強化され路上投棄など以ての外、野積
みも禁止されるようになって堆肥としての販売利用が拡大され、いまや「化学肥料と農薬に
どっぷりつかって
」などという農法は、いわゆる慣行農法を批判する有機農法論者の頭の中に
しか存在余地がなくなっている。

イミテーションが粗雑で、一面的であればあるほど、本物との違いを見分けるのは簡単だし、
代替物による交換可能性は一面的にならざるを得ない。かつてのチッソ、リン酸、カリなどの
三大要素だけの肥料は、その一面性が明白になるにつれ、改良されてきた。微量要素の重要
性や栄養摂取その他の面での土壌微生物の役割が知られるにつれ、堆肥利用の重要性が
強調されるとともに、また様々な資材が(価格は兎も角、化学肥料を使うのと同じ手軽さで)
利用出来るようになった。要するに化学農法と有機農法の境目はますます不明瞭になり、
相互転換がますます容易になりつつある。言い換えればイミテーションは、益々精巧になり、
本物との違いが見えにくくなるとともに、肥料に関して、そもそも何が本物なのだと問い直される
段階に至ったと云っても良い。
それでもなお「化成肥料をいっさい使わない」ことに、何か積極的意義があるといえるのか??
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by agsanissi | 2007-07-25 23:18 | 考える&学ぶ
2007年 07月 25日

ジャガイモが...

15.1/24.1度、日照9.7時間、昨日から俄かに暑くなってきた。といっても24、5度だから
贅沢な話か?!日曜日のニュースで、「各地で水の事故が...」云々と喋っていた。
一瞬、「何のことだ?」と思ったが、そういえばもう夏かとやっと思い出した。昨日、青森の
友人が訪ねてきて「先週あたりは寒いの何の、かと言ってストーブをつければ暑いし...」
などと喋っていた。さほど、呆れた話でもないから呆れたもんだ。


c0048643_1746293.jpgホウレン草の集荷で村中を廻っている農協の職員がやって来て
「今年のジャガイモは枯れるのが早くないですか?」といった。
「予想より4-5日は早いけれど、まだ黄変期で枯れるというほど
じゃないね」
「いや、すかっり枯れてますよ」
「どこの畑を見てきたの?」
「村中です。すっかり枯れて残ってるところはないですよ」
「僕の畑のことじゃないのか。どんな風に枯れてるの?」
「すっかり茶色くなって、葉っぱは丸っきりなくなってる。いつもより早いじゃないかな」
「ああ、それは疫病だ。11日から一週間雨が続いたし、気温も17、8度だったからね。絶好の
疫病が蔓延する条件だよ」
「風来さんのは大丈夫なの?」
「早めに掘るやつは、もう枯れて良い頃だから放って置いたけれど、後半の奴はあと二週間
は頑張って欲しいから、14日に、霧の中、疫病防除をやったから大丈夫だ」
「霧で流されないの?」
「一部怪しいところがあるけれど、まあ効いたようだから効果はあったんじゃないの」
「病気か、それで芋は大丈夫なの?」
「やや小ぶりの芋になるけれど、食べるには問題ないね。ちょっと早いかなと思うくらいで、
普通の人は殆ど病気だったというのも気付かないくらいだろ。普段より小さいなと思っても、
今年の作柄だというくらいで、なぜ小さいかなんて考える人は、まず居ないね。それで良い
のさ、それで商売やってる訳じゃないし」

********************************

昨日今日とソバ播種の準備、昨日は東23(ナタネ跡)と東7(ダイズ跡)にハローをかけた。
直前まで、今年はブロードキャスタでばら蒔きにするかと考えていたが、ハローをかけながら
「やはりグレンドリルで播こう。町歩当り2000-3000円は安上がりだし、時間が三分の二で
済むしな」と考え直した。
それにしても何故、ばら蒔きにしようとしたのかナタネの鋤き込みが上手くいかないと思った
のかな、忘れてしまった。グレンドリルのソバ用への組み換えに3時間もかかる。その後、
40分で1町歩だけ播き終わる(反部8キロ、肥料はチッソで3.6キロ)。少々気疲れした。
残り2町歩は明日に残す。2、3日遅れたが、ほぼ順当なところだ。
裏山でヒグラシの合唱が盛ん。
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by agsanissi | 2007-07-25 18:21 | ジャガイモ
2007年 07月 24日

土を考える/化学農法/9

歴史的回顧がやや長すぎた。「土を考える」というテーマでは、多少外れる面もある。順番と
しては次に有機農法を考えるつもりだったが、反科学主義の流れとの関連で「化学農法」を
先に扱っておくことにした。化学農法という言葉があるのかどうか知らないが、化成肥料や
農薬など化学工業品を主に利用する農法としておく。農業機械の利用は不耕起を原則とする
自然農法を別にすれば一般的だから除外して考える。

戦後の農業生産高の著しい増大及び農業生産性の向上の要因は農業機械、化学肥料及び
農薬の普及の三つに還元できる。概ね、その期間は1955年からの約30年間と見てよいか
と思う。この期間に、日本人は少なくとも飢えや栄養失調からは解放され、いまや「飽食の時
代」とまで云われるようになった。但し「飢え」からの解放には国内農業生産の拡大が貢献した
に相違ないが、「飽食」は専ら輸入農産物に依存している。僕の小学生の頃、半世紀ほど前に
は、まだ都会でも栄養失調という言葉が普通に聞かれたし、痩せてガリガリの洗濯板という
綽名(肋骨が洗濯板のように波打って見えた)さえあったくらいだ。
1960年代には、既に耕地面積の縮小も農業就業人口の減少も始まっていたけれど、概ね
80年代半ばまでは、農業生産性の向上で相殺されて農業総産出高は増大した(参照、7-23)。
農業生産性の向上を何で計るか、個別経営では比較的簡単だが、農業部門全体の生産性を
計る指標に何を使うのが適当かは中々厄介だ。目安位の考えで「就業者一人当たりの名目
純生産額」を取ると1960年に9万8千円、70年に34万円、80年に104万円、85年に129万
円、この25年間に13倍、絶対額では到底及ばないが、工業の生産性向上(10倍)を上回って
いる。
農業労働の軽減に最も貢献したのは農業機械の普及、一方、化学肥料及び農薬の普及は
労働の軽減にも貢献したが、それ以上に反収の増大で生産性向上に貢献した。
化学肥料の生産高は、硫安は1950年の150万トンから60年に242万トンに、化成肥料は50
年の4万トンから60年に240万トン、80年に449万トンに増大した。傾向としては単肥は60年
代で頭打ち、代わって化成肥料が80年まで増大し、やがて頭打ち(「日本国勢図会」から)。
農薬出荷高も1980年に68万トンでピークを打ち、その後減少し続け05年には27.5万トン、
出荷高の内訳で見るとこの間、殺虫剤が大幅に減少、除草剤がこれに取って代わり、殺菌剤
は横ばいという傾向が伺える(参照)。
これを農家経済の費用という面から見ると、反当り肥料費が1965年の3.5万円から85年に
16.6万円、同じく農薬費が1.1万円から11.4万円に増大した。統計の取り方が連続しない
面もあるが、この増大は1994年まで続き肥料費は21万円、農薬費は17万円でほぼ頭打ち
になった(参照、7-22)。化成肥料と農薬の生産高が80年にピークを打つのは耕地面積の
縮小による使用量の絶対的減少を面積当り使用量の増大で相殺できなくなったからだ。
絶対的にも相対的にも減少するのは、それから14年たってからだ。ちなみに僕の去年の反
当り肥料費は4500円、農薬費は650円だ。

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が翻訳出版されたのが1964年、有吉佐和子の「複合汚
染」の新聞連載が始まったのが1974年、農業の現場で、実際に化成肥料や農薬使用に歯止
めがかかるようになるには、更に20年を要した。その間に、農業の現場では、畑作から野菜作
へのシフト、主産地形成政策に伴う野菜の連作、連作障害や反収の減少、化成肥料と農薬の
過用、耕地の疲弊など諸問題が各地で発生し、「作物栽培の矛盾」は覆いがたいものになった。
化成肥料や農薬の使用は、この矛盾を解決するものではなく、却って激発させるものでしか
なかった。加えて環境面からの告発の声は高まる一方だ。
90年代半ばに流れはすっかり変わった。化成肥料万能・農薬万能の安易な考えは深刻な反省
を迫られ
、初めて実質的に化成肥料と農薬の使用が減少し始めた。僕はこれを反科学主義
の大きな流れの一部と考えている。この流れは「反科学主義の必然性」で書いたように、科学
主義の傲慢と権力や企業の走狗と化した科学者への不信が根底にある。科学主義が、自然に
対する畏怖の念を忘れ、「科学の力」が万能であるかに錯覚する行き過ぎを犯したように、
いまや逆の行き過ぎに向かって走り始めているのではないかと僕は危惧しているが、その責任
は百%科学の側にある。
いまや化成肥料や農薬そのものが、まるで悪者であるかに扱われ始めている。化成肥料や
農薬を使わないこと自体に、何か価値があるかの意識倒錯
さえ生まれている。かつてそれらが
登場したときには「魔法のランプ」であるかに珍重されたものが、いまやすっかり価値観は逆転
して厄介者の危険物かに見なされ始めている。
果たして、そうなのか??
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by agsanissi | 2007-07-24 02:14 | 考える&学ぶ
2007年 07月 22日

土を考える/日本人は稲作農耕民か/8、「環境」と云う殺し文句

19.1/22.9度、明け方先の見えぬほどの濃霧、昨夕から続いた雨は早朝に止む。
裏山で鳴くヒグラシに目覚める、今年の初鳴き。この地域のソバの播種適期は7月
の土用を挟む前後五日間と見ているが、この雨で二三日は延期せざるを得ぬ。
専ら、小麦の乾燥作業のみ、といって自分でやる作業は乾燥機からの出し入れのみ。

************************
「環境にやさしい」等といえば、今や何でも通ってしまうくらい威力のある免罪符の如きものだ。
産業技術はもち論、役所間の予算獲得競争から学会の研究費獲得争いに至るまで、学術論争
から巷の床屋論議まで、家庭のゴミ焼却問題から地球温暖化をめぐる国際間の覇権争いに
いたるまで。

阿呆な環境論者は、「環境にやさしい」雰囲気さえ湛えておれば、その実態が何なのか、
その議論の前提を仔細に検討し、自分の頭を使ってジックリ考える時間も惜しんで流行の議論
に飛びついている。利口な企業家は、これからの商売のキーワードは「環境」であり、ひとつ
当てれば環境産業は何十兆円の巨大市場になるとソロバンを弾いている(参考)。
僕の云うことは、人の善意を疑う悪意に満ちた嘲笑か、皮肉屋のシニックな当て擦りか?
畑作牧畜文明は「森を破壊する」、稲作漁労文明は「森の文化」等と本当に云えるのか。
いま世界の森林を破壊しているのは畑作牧畜文明か、それとも稲作漁労文明か。
農耕文明が発祥して以来の一万数千年の歴史において、最も強烈かつ急激に森林破壊が
進んだのは、いったいいつ、どこで、誰がその担い手になったのかを、ジックリ考えてみたまえ
参考)。

これからの「私たちが模範とすべき生き方は、稲作漁撈の文明だと思います」。
宜しい、具体的にそれはどんな生き方なのだ?口先だけではなく、本気でそれを実行する覚悟
は出来ているのか?
現在の日本人は、果たして畑作牧畜民なのか、稲作漁労民なのか?
稲作農耕民の伝統の上に立っているという思い込みに加えて、稲作農耕が「環境にやさしい」と
でも云えば、居心地の良い慰安を与えてくれるのか?
近代になって西欧の文化が取り入れられて都市が農村を侵食するまでは、我が国の文化
は稲作文化そのものでした
。すなわち、現代まで僅か140年足らずの都市文化に対して、稲
作文化は約3000年の長い年月にわたって日本人のアイデンティティを形成してきたのであり、
我が国固有の文化は農耕民族である日本人の歴史が形成してきたものなのです
」(参照)。
つい最近まで、こういう議論が何の疑いもなく罷り通っていた。
しかし果たしてそうなのか?稲作民俗とともに畑作焼畑民俗が日本文化の基層を形成して
きたのではないかという反省と関心が頓に高まっている(参考1参考2)。
僕の意見では、稲作文化は専ら支配階級の関心事であり、一般の百姓は畑作農耕によって
生き延びてきた
と見ている。なぜなら稲・コメは殆ど税金に取られ、現実に百姓の口に入った
のは畑の雑穀・芋・木の実・野菜等だからだ。経済学的に云えば、コメは税金として徴収され、
或いは換金商品として国民経済計算の対象にはなるが、自給用の雑穀・芋・豆・野菜等々は
経済計算の対象にはならない(主婦労働が国民総生産の対象にされなかったのと同じこと
だ)。仮にそうだとすれば稲作は実態以上に過大評価され、畑作は実態を見逃されてきた。
それ故、稲作農耕文化は支配階級の文化であり、百姓は畑作農耕で生き延びてきた。
果たして、日本は稲作農耕民なのか畑作農耕民なのか?
肉食はどうか?
最近送られてきた吉川弘文館の上半期分の新刊案内に「神々と肉食の古代史」という本が
紹介されている。その紹介文に
古来、日本人は、肉食を穢れとして忌み避けたとされている。だが、神話に登場するアマ
テラスなどの神々は生贄の肉を喜んで食べ、喪葬儀礼や祖霊の祭りでも肉が供えられて
いた。...平安時代に肉食が禁じられた過程を考察
」と書いてある。
実際の中身は知らないが、狩猟採集生活の伝統を担う庶民が、腹を空かせて目の前の獣肉
を食べないはずがないのだ。とすれば肉食を穢れとする思想などは貴族どもの禁忌思想の
観念論(キリスト教の観念論の兄弟だ)の押付け以外の何かであるはずがない。
こうしてみると我々の祖先は、稲作漁労民なのか畑作肉食民なのか。現実はその雑多な混交
であり、そして現在は世界中に機械類・車・化学製品などの工業品を売りつけ、食糧や木材
資源などを世界中からかき集めるリバイアサンだ。
我々は、稲作漁労民の伝統を引き継いでいるという思い込みに安住し、稲作農耕は「環境に
やさしい」などの戯言に耽っている間に、足元の農民は息も絶え絶え、老齢化して減少し、農村
は疲弊し、純農業生産高はゼロ、畜産生産額は米生産額を凌駕し(参照)、米と小麦の消費量
は逆転しかねぬ勢い(参照)、肉類消費量は魚介類消費量に迫る勢い(参照)、しかもその半分
近くは輸入だ。
仮に稲作農耕が「森の文化」で、畑作牧畜農耕が「森を破壊」する文化だと云うなら、我々は
小麦と肉類だけを世界から掻き集め、「森の破壊」は他国に押し付け、自分だけは稲作農耕
の子孫だと自己満足に耽る最悪の嫌われ者と云うことにならないか。

安田さんの提言の中には、まだまだ長江文明に魅せられた発掘者のユートピアが感じられ
る。だがその悪しき亜流の回収型農業・流出型農業の漫画的類型化に至っては、土地所有
関係・技術的能力などの社会的諸関係などとは無関係に、西洋人は栄養学的に肉を喰らわ
なければならぬために、まるで有史以来、ひたすら森林破壊に邁進し、かつ古代ローマの
プロレタリアートに至るまで、中世イギリスの土地を奪われた没落小農民に至るまで鱈腹肉を
喰らって来たようではないか。こんな愚論でさえ、「環境」の看板を掲げれば卓見に見えるらし
く、一部の環境論者には心地良く響くようだから呆れ果てる。

看板に騙され、中身を吟味しないようでは、オレオレ詐欺に引っかかりますぞ!!
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by agsanissi | 2007-07-22 19:33 | 考える&学ぶ