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2008年 02月 29日

小麦の国際価格

△5.3/9.7度、日照5.9時間、風やや強し。

穀物の世界的な指標相場となっているシカゴ商品取引所(CBOT)小麦先物3月限は
1ブッシェル(約27キロ)当り12ドル台をつけた後、やや反落した。

ロイター電(08/02/27)は、
0400GMT(日本時間午後1時)現在、CBOT小麦先物は期近の3月限が1ブッシェル=11.
80ドル。前日のシカゴ市場から1.6%下げている。アジア時間の序盤では、ストップ高を付け
た前日のムードを引き継ぎ上昇、一時、約6%高の12.74─3/4ドルまで買われる場面もあ
った
、と伝えている。

c0048643_195452100.gif06年後半以降の急騰振りは、右図(07/09/25読売から)
に見るとおり。仮に、06年末と最近のキロ当たり小麦価格
を試算してみると(クリックで拡大)
4ドル×115円÷27キロ≒17円から
12ドル×107円÷27キロ≒47.6円へと
約2.8倍になった。
このような国際価格の急騰を受けて、農水省は輸入麦の
売渡価格の平均30%の引上げを決定した(02/15)。

農水省の報道発表は(参照)、
麦の国際相場は、
(ア)中国やインド等の人口超大国の経済発展による食料需要の増大
(イ)世界的なバイオ燃料の原料としての穀物等の需要増大
(ウ)地球規模の気候変動の影響
といった構造的な要因による穀物需給のひっ迫から大幅に上昇している。

としている。
実際には、「構造的な要因」との報道をバックにした投機的取引による急騰が中心だろう。
サブプライム・ローンの焦付きをきっかけにした金融不安と株安でだぶ付いた資金が石油
市場や穀物市場になだれ込んだ結果の上げ相場だ。
ともあれ、中日新聞(08/02/16)によると政府売渡し価格の「5銘柄加重平均で1トン当た
り5万3270円から、6万9120円になる。記録が残っている1970年以降、73年12月の
35%に次ぐ大幅値上げとなった。輸入小麦価格は昨年4月に1・3%、同10月に10%引
き上げられており、昨年からめん類やパン、菓子などの価格引き上げが相次いでいる
」と
のこと。

農水省の報道発表には、「参考2」として
平成20年度の輸入麦の政府売渡価格の算出に当たって織り込まれるマークアップ等の額
は以下のとおりである。
マークアップ :16,868円/トン(税込み、小麦、一般輸入方式)
港湾諸経費:2,102円/トン(税込み、小麦、一般輸入方式)

と、付録のように報じられている。

「マークアップ」とは何だ?
嵩上げ分、差額、マージンという意味だ。その実態は、関税と思えばよい。
「マークアップ」がマークアップと云われる由縁を初め、小麦の政府売り渡しの仕組みや
国内産小麦との関連は、緒方林太郎氏のブログの「小麦の価格」(08/02/16、参照)を
読んで貰うと分かりやすく説明されている。

一方、同じ問題を取り上げて、こちらのブログは、「小麦 マークアップって…」(参照)で
小麦生産者のみなさんが政府の助成金目当てに
小麦を生産することをやめてくれれば、
消費者は安くて高品質な小麦にありつけるのですが。
と、論じつつ、
小麦生産者は一般消費者の敵ですな」と煽っている。
(引用されている数字は、ウソではないが、実態とはかけ離れている)

このくらいハッキリと煽り立ててくれると、論点が明瞭になって結構ですな!
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by agsanissi | 2008-02-29 21:10 | 小麦
2008年 02月 27日

閉鎖的ギルド社会

△1.8/0.3度、辛うじて真冬日を超える、日照2.7時間、昼前後雪が一頻り舞う。

日本の農政の基本的性格について、真っ向から対立する二つの意見がある。
・長年の「低生産性農業」を自己利益の道具としてきた役所、政界の戦略は、グローバルな
農産物価格の急騰で崩れている。(08/01/19、参照
・「効率最優先の農政からの脱却を」(08/02/16、参照

確かに、農水省は約半世紀にわたって「生産性向上」を謳ってきた。が、他方では基幹作物と
された米の生産調整を約40年にわたって続けてきた。水田の社会的機能がどうであれ、生産
調整と生産性向上は一般的には両立しない。この点を考えれば、日本の農政が「効率最優先」
に走ってきたなどという批判は、単に悪い冗談でしかない。
産業としては、既に事実上、壊滅状態にあり、高齢者と兼業農家が大半を占め、新規参入者は
殆どない。このまま推移すれば10-20年内には確実に耕作者が消えてしまう。
「自然を相手にし、人命を支える食料生産を担う農業」には「効率や利益を追い求める競争原
理」はなじまないなどと高尚な職業倫理を説いたところで、自分で田畑を耕すだけの気概もな
し。食料安全保障の立場から、どんなに口を酸っぱくして農業の重要性を説こうと、新たな参入
者が生まれなければ、産業として確実に消滅する。

農業就業者、耕地面積、自給率などの数値が、もっと悪くなるのかどうなのか、歴史的には、
ほぼ限界値に近いとは思うが、夜明け前が一番暗いというから、多分、目先は悪くなる他ない
のだろう。

【食料自給を考える】は、「食料自給率」という穴を通して農業・農業政策を考えた場合、どういう
情景が見えてくるか、ということで書き始めた。皆さんが、どういう情景を見たか、充分に正確な
イメージを形作れるだけの素材を用意できたかどうか心許ない面もあるが、現状で僕に書ける
のはこんなものだ。

その結果、僕に見えたのは、非常に大雑把な表現でいうと、日本の農業社会はギルド社会だと
いうことだ。農水省・農協・土地持ち農家・農林族政治家・土建業者などで形成される囲い込み
産業で、一般社会の利益よりも囲い込み内部(すなわちギルドだ)の利益を優先する閉鎖的
産業だ
(「ギルド」については、取敢えずウィキペディアを参照)。
この点、貧農切捨て・零細農家切捨て・選択的切捨て・効率最優先などと見当違いな批判を繰
り返してきた農政学者も、ある意味では、ギルド社会の補完物と見なして良い。

今日、日本の農業が陥っている困難は、このギルド的なあり方が完全に社会的要請と背馳して
しまった点にある。ここから脱皮できるか出来ないか、脱皮できなければ自滅する外ないという
切羽詰った状態にまで陥ってしまったということではないのか。
モルガンスタンレーの研究主席の分析のように、世界的な農産物価格の高騰がギルド的閉鎖
性を打ち壊す切っ掛けになり得るかもしれない。

もち論、「食料自給を考える」の中では、ギルド社会だという批判を展開してこなかった。むしろ、
唐突な結論に見えるかもしれない。しかし、この点をきちんと展開するためには「食と農のドロド
ロ」(08/02/01)の中で触れたように農地制度を初め、戦後の農政全般を分析しなければ、殆
ど何も書けない。将来の課題だ。
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by agsanissi | 2008-02-27 21:25 | 考える&学ぶ
2008年 02月 24日

様代わり

明け方から雪が降り始めた。

c0048643_10302454.jpg一昨日と昨日は、二月に入って初めて、日中最高気温が
10度前後にまで上がって、日陰に残っていた雪氷もグズ
グズのシャーベット状に融け、畑の雪は殆ど消えて、麦
が見えていた。
昨日から、大荒れの天気が予報されていたけれど、日本
海側と内陸が中心だろうと、「高をくくって」いたら、なんと
大雪の中心は北部沿岸に移ってきた。





c0048643_1038827.jpgc0048643_10383326.jpg昨日の日中とその
6時間後の太平洋
側の気温を比較す
ると、7-9度くらい
下がっている。
ここらでは当り前
だが、関東辺では
急変という感じか


c0048643_10501889.jpgc0048643_10504286.jpgc0048643_105145.jpg









太平洋側の昨日の日中から夕刻に掛けての暖気と寒気の入れ替わり、
明け方に掛けての東北北部沿岸の雪雲の急速な発達の様子を天気図の
変化で跡付けてみると、上記のようになっている。
昨日の15時過ぎに、前線の通過に伴い一時的に雷雨と突風、夕刻以降
は所々に薄雲がかかるが、星と朧月も見える。比較的穏やか。
やや変形の「二つ玉」低気圧だが、天候の移り変わりは、ほぼ定型通り。
9時34分に、岩手県全域に「大雪,風雪,着雪注意報」が出されたが、
沿岸部のみ「暴風雪,波浪警報」が出されている。
但し、風は意外なほどに静かだ。音もなく雪が降りしきる。

参考暴風雪と高波及び大雪に関する岩手県気象情報第6号
平成20年2月24日09時53分
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by agsanissi | 2008-02-24 11:06 | 気象/季節メモ
2008年 02月 23日

現状で書けることは...

昨日は、多少、お門違いな脳内のことにまで話を飛躍させてしまってちょっと興醒めな
ことを書いてしまったかなと反省している。今日は気持ちを取り直して、信州仙人のコメント
の感想(というより、読みながら頭に去来した事共)を書いておく。仙人のコメントは青、僕の
コメントは◆を付す。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-22 00:24 x
火縄に点火したのは食糧自給シリーズに端を発するところの、石油エネルギー依存の社会
システムが背景や、”自給率低下”というモノサシより”依存率拡大”のモノサシで考えるとどう
なのか、人間の幸福度というモノサシならどうか、と舞台の袖でものを言うあたりだろう。ここで
私の腹蔵の罪を告白するなれば、本編舞台上の精緻なる文体に貫徹している"モノサシ"を
換えたら文脈が変わるのじゃないかと、コペルニクス的展開を期待したこと(私の稚拙な投げ
文では叶わず)

◆「依存率拡大」という言葉を見たとき、ハッとした。虚をつかれた感じですね。誰にも死角は
ある。特に、何事かに集中しているときは、この死角が広がる。例えば、車を運転するときは
視点を何かに集中させず、茫漠と前方を見なさいを注意される。視点を集中させると、死角が
広がり、事故率が高くなる。そんな感じですね。
「依存率拡大」の一言が、最初のコメントにあれば、多分、もっと別の反応があったでしょうね。
とはいえ、そうは簡単にコペルニクス的展開が叶うものではない、時間が必要だ。

矢継ぎ早に更新される内容は、私からすると体感速度が早いので話題となるテーマを追って
いくのにまごつくこと多々。数日間の記事を追えないまま《「効率最優先」の農政が問題なの
か?》を目にし、"日本の○○"という記述に反応した。十把一絡げに農業を右に左にとの展開
にやや違和感を感じたので、もっと個々の農家の生活を含めた、周辺の環境や文化の上に
成り立つ農家の暮らし方のありよう
を考えるべきだと言いたかった。『「効率最優先」の農政』に
絡む前段において、土台となる農家の目線がどこを向いているかが捨て置かれているように
感じたからである

◆僕の感性には「十把一絡げ」という捉え方はない。実際に、「個々の農家の生活を含めた」
云々の部分を具体的に展開できるかどうかは、僕の経験、勉強、認識に依存している。
08/02/11「宮本常一の目」で「半分は都会人の目で農業を観察しているかもしれない」と
書いたのは、日本の農村についての認識が決定的に不足していると感じたからだ。
その認識不足のせいで、「十把一絡げ」に陥ることはあっても、感性としてそれで良しとする
ことはあり得ない。これこれの部分は「十把一絡げ」の捉え方だという批判なら、直ちに反応
するけれど、「日本の.○○」の言葉にこだわるから、認識論や方法論、モデル論の話にまで
不必要に問題を広げてしまうのだ。これはこれで、何かの足しになったから、無駄だとは全く
思っていないが...。実は、僕も道草のほうが好きでね。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-22 00:25 x
農の営みは、拠って立つ土地特有の条件と地域の暮らしやコミュニティの関係性を共有し、
独自の地域全体の農村システムとして成り立ってきた。各々のローカルシステムは千差万別
であることは言わずもがな、水路道路の維持、田の水配りの当番などの他、生活行事と一体
の文化的な共同、密接な相互補完しあっての営農が基底にある。いわば村落運営全体複合
システムが存立していてこそ各農家は成り立ってきた。ここで、農村の持続性を担保してきた
ローカルシステムを揺るがしてきた負の文明スパイラル
をどう見るか。底流に潜む汲むべき
視点を見逃しては、皮相の現象を揶揄していても実りがないと感じたわけである。畢竟、言い
たいことは次の二点。

1.自給自立できていたシステムが崩壊していく過程を良く見ろ。
2.自然風土の中で生きる農の生々しい風景をもっと浮き彫りにしろ。

◆この点は、まさに指摘の通り。08/02/07「食料自給を考える/一応はまとめ/21」に
「よってたかってそのような扱いを押し付けてきたからそうなった」という一言を入れたのは、
そのような認識が前提にあったからだけれど、如何せん、現状では僕にはこれ以上のこと
を書けるだけの経験も知識も不足している。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-22 00:26 x
これらの伏線上で、考える土台や共通共有できる話題で展開が進むと勝手に期待し、《農の
ある暮らし》の源泉から本流に至る道を考えてみたかった。が、実際は山人さんが仰るとおり、
私の書き方が下手で、そう甘くはなかったということですな。私の場合、抽象的な概念を理解
するのも説明するのも一苦労。数学の話まで出た際は立ち眩みの態。日はとっぷり暮れて
道遠しだ。人それぞれに言葉から具体的イメージを連想し、問題意識と連結して考えが方々
にリンクしていく。人にもよるだろうが、一貫した体系を組み立てながら沈着に思考を躍らせて
いくより、発想の赴くまま進むほうが断然面白い
。だがついつい埒もない言葉の綾に絡まって
しまった。『重要な問題があるという思考の盲点を指摘』する以前でつまずいている失態。
『具体的に指摘することで、議論は初めて生産的になりうる』は順当な見解。私のやぶ睨みで
お門違いな袖の戯れのために徒に労を費やさしてしまった段、深くお詫び申し上げる。こういう
時は一歩退いて褌の締め直しするに限る。感謝

◆僕には、「一貫した体系を組み立て」ている意識は全くない。というより正反対の意識で、
いつでも書いている。思いつくまま、気のむくまま、脱線寄り道が本筋だからとさえ書いている。
これは謙遜でもなんでもない(一般に、僕は謙遜をしたことがない。逆に、他人の謙遜さえ、真
に受けることがある)、本心だ。
お互い自然体で臨めば、問題なし。最後の一句には、自然には無駄なものは何もない、という
ところですね。
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by agsanissi | 2008-02-23 06:16 | 考える&学ぶ
2008年 02月 22日

体感とモデル

岩手の現場に戻ってから三日経つ。
毎朝、5時頃に外に出てみるが、20日の朝はやや寒さを感じた。21日の朝は、寒風が
吹きまくり、酷く寒かった。今朝は快晴無風状態で、温かいというほどではないまでも、
寒気はゆるんだように感じた。
アメダスの観測地点は、僕の家から3キロほどの開けた場所に設置されているが、気温
の条件は、ほぼ同じと見ても良い。
それで、アメダスの記録では、20日は△5.2/6.1度、日照3.5時間、風速1メートル、
21日は△0.5/3.6度、日照7.8時間、風速4メートル、今朝は△6.5度、風速1メートル。
風は、場所によって大違いの傾向があるから、大体の傾向を表すだけだけれど、気温や
日照時間は概ね、この通りと見てよい。
僕の家のある場所は、海岸に近く、標高はゼロ、風は風向きによって違うし、また裏山に
あたる風音が実際以上に感じさせることもあるし、風向きによっては吹き降ろしが強いこと
もある。畑のある山の標高は200メートルで、直に太平洋に面している。風も強いし、最低
気温は、地上よりも2-3度は低い。

「考え方」との類比で言うと、アメダス統計はモデルと見てよい。それは、普代の様々な地点
の代表値というわけでもないし、平均値というわけでもない。要するに観測地点の、ある規定
の観測方法による観測結果にすぎない。観測方法や観測器具を変えれば、観測値は変わっ
てくる。「観測値」というのは、そういう様々な要素を含んだ近似値に過ぎない。気温に限らず
重さも、長さも、ある意味では世の中の全てのものが近似値に過ぎないといっても良い。
(大体、人間の身体の部品は、約二ヶ月で全て入れ替わってしまうことから考えると、自己
同一性というものだって、近似値に過ぎないといっても良い。議論を、ここまで広げてしまう
と訳が分からなくなるから、まあ、話を元に戻そう)
そうは云っても、他の地域と比較したり、普代の他の時期と比較して、ある種の傾向を掴む
には便利な指標だ。そういう意味でモデルになりうる。この場合、モデルというのは、普代村
の気温の代表値といっても良いし、比較対照値といっても良い。これをモデルにするのは、
いろいろな比較対照をして考えるための方便だと見なしてもよい。
モデル値は、当然、普代村の各地での実際の気温とは違うし、まして各地で感じる体感温度
とも違う。それぞれの値は、みんなそれなりの意味を持っているけれど、ある程度、客観的に
「普代村の気温」を知りたいと思えば、モデル値を使うのが適当だ。何故そうなのかは、客観
的という言葉そのものの中に答えがある。

いきなり話は、飛躍するけれど....
意識的・無意識的の違いはあっても、人は考えるときは、頭の中にある種のモデルを作って、
そのモデルを参照して考えている。そもそも、パターン化されたモデルを持っていなければ
考える行為そのものが不可能じゃないのかと思う。
大脳生理学の知見では、どう云ってるのか知らないが、考えるときばかりではなく、見る、聞く
感じるなどの感覚的作用さえも、ある意味では認識パターンの記憶(これはモデルといっても
良い)がなければ、本来の意味では働かないのではないか。
例えば、自分の夫、妻、子供などを、それと認識するのは、頭の中に夫、妻、子供のモデル像
が記憶としてあるからで、もしこのモデル像の記憶が失われてしまうか、あるいは感覚器官が
モデル像を参照する回路に狂いが生じてしまえば、目の前に居る夫、妻、子供などを、それと
認識できなくなってしまう。
なぜ、こんなことが起きるのか?それは感じる、考えるという認識作用は、脳内に蓄積された
ある種のモデル(認識パターン)を参照することで成り立っているからだと思う。

科学的認識というのは、このようなモデル像を他者も見ることが出来るように、文章化したり、
数式化したりして、客体化することだ。頭の中にあって、作ったり・壊したり・修正しているうち
は良いが、一旦、客体化されてしまうと、あたかもそれが現実であるかの倒錯現象が起きる
ことが厄介な点だ。
考えるという行為には、どんなに科学的・客観的に認識しようとしても、現実を認識しようと
する試みには、必ずこのような危険が潜んでいる。
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by agsanissi | 2008-02-22 08:03 | 気象/季節メモ
2008年 02月 20日

どう考えたら良いのか?

今日の太田述正コラム(No.2371)に、つぎのような記事が載っている。
日本政府の最近の調査によれば、外国人観光客の日本観光の目的は10人中7人までが
食だ。
昨年11月ミシュランが初めて東京のレストランのガイドブックを出したが、このガイドブック
によれば、パリ約2万店、ニューヨーク約2万3000店に対し、東京にはレストランが16万店
もある。
しかも、ミシュランが一つ星以上を与えたレストランは、パリ98店、ニューヨーク54店に対し、
東京は191店もあった。最高の三つ星が与えられた東京のレストランは8店あり、そのうち
5店が日本料理店、3店がフランス料理店であり、星が与えられたレストランの中にはイタリア
料理店、スペイン料理店、中華料理店やステーキハウスもあった。
これほども日本の料理の質が高いのは、魚文化のせいだという意見がある。
漁師達は鮮度を維持するため、水揚げしてすぐ血抜きをし、とれた海域と同じ温度と塩度の
水の中に、しかも傷がつかないようにパックして築地へと送り出す。


一方で、食生活の崩壊とか、日本人の食の堕落が論じられている。僕も書いてきた。
他方で、世界的に見ても超高級のレストランが東京にはある。

どちらか一方のみを取り出して、日本の食を論ずることが出来るのか?
あるいは、東京のようなあり方を、単なる例外と見るか?
それとも東京のような突出した例を含めた日本の食文化の(あるいは、もっと一般的に、
グローバリズムの一側面というような意味合いで)、ある種の「到達点」のようなものを
考えられるのか?
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by agsanissi | 2008-02-20 07:12 | 考える&学ぶ
2008年 02月 20日

結局、何を問題にされているのか?

認識論や科学的方法についての、僕の考え方は、主に「土を考える」で、折に触れて
書いてきた。ここでは、それを再び問題にしようとは思わない。一点にのみ絞る。

で、日本の農政は、本当に「効率最優先」だったのか???
本当に、それが日本の農業の本質的問題だったのか??

と書いた点に関して、次のようなコメントを頂いた。

・「日本の農業の本質的問題」を問うとするならば、すべての農家に共通共有できる問題
は何かを、レリーフのような浮き彫りにして論考を進めるべきだろう。《日本の~~~》と
いう、あたかも同じ土俵に立っているかに錯覚して、便利な言葉に潜む落とし穴に嵌まる
まい

◆言葉、一般的に概念には、常にこのような危険と思考の落とし穴がある。例えば、
国家、生命という言葉を使うことで、あたかも国家なり、生命なりが判ったかのように使う
ことがある(実は、サッパリ判らない)。或いは、その言葉で表象する内容が、共通だと
錯覚する危険がある(実は、サッパリすれ違っている)。従って、一般論としては、これで
良い。

"日本の"と、冠を前置して「日本のヤキイモ屋」の『共通の「土俵」』というものを考えるとして、
どんな意味があるかである。全国で商売している個々のヤキイモ屋は、条件はみな違うなか
で、自分のやり方で商売している。…ここで"ヤキイモ屋"を"農業者"に置換しても同様と私は
見ているわけだが(例外はあるかも知れぬが)

◆これを、「日本の農業の本質的問題」などと(この中身については、僕はまだ何も書いて
いない)、さも重大そうに書いているが、実は、そんな問題提起自体が無意味なんだ、と主張
しているものと受け取った。

各々農業者の周囲の環境は皆異なっている。唯一無二だ。『共通の「土俵」「舞台」』を想像
しても良いが、逐一本人に総当りして確かめない限りは仮想に過ぎぬ。仮想を根拠にした
思考の展開は自家撞着か、単なる空想に到る。ようするに、"日本の"と、括るもしくは束ねる
ことで(統計などの調査データ)、何かしら抽出できると考えるのは幻想のような気がすると
言いたいだけだ

◆個々の農業者は、常に具体的存在で、唯一無二だ。しかし、社会システム、法制、慣習
等によって共通にくくられる、或いは外国に対して「日本」と総括できる「日本の農業問題」と
いう問題はありうる。しかし、そのような問題の立て方は「逐一本人に総当りして確かめない
限りは仮想に過ぎぬ」から、単なる空想に到るという主張は、「考える」という行為そのものを
否定するに等しい。人は、言葉によって「考える」が、言葉の意味は、その意味対象に「逐一」
総当りした結果として定義されているわけではないから。

日本に暮らす農業者はすべて「外国との競争に曝され存在自体が脅かされて」いるんだろうか?
◆どんな一般論にも、例外を指摘しうる。例外を指摘することで、一般論の意味を否定すれば
一般に、全ての議論は無意味になる。

結論として、僕は「効率最優先が、本当に、日本の農業問題の本質的問題だったのか?」と
書いたわけだが、そういう問題提起自体が無意味だと云いたいのか?
(僕が、一貫して「農業」問題と書いている点を、農業者問題に置き換えているが、これは
意図的にそうしているのかどうかは分からないが、僕はこの置き換えを意図的に無視して
いる)。
だとすれば、この問題はある意味では形式的問題に過ぎないから、これ以上書くに及ばない。
僕は、そういう問題提起に意味があると考え、信州地湧仙人は「単なる空想に到る」所詮は
無駄な所作と考える違いに過ぎないから(実際に、何かを書く前に無駄だと言われても、どう
にもならぬ、それで意気阻喪するわけでもなし!試行錯誤とは、そういうもんだ)。
それとも、別の何か、こういう考え方をすることで、疎外される、或いは無視され・切り捨てられ
てしまう、重要な問題があるという思考の盲点を指摘しているのか?
だとすれば、それは何かを具体的に指摘することで、議論は初めて生産的になりうる。
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by agsanissi | 2008-02-20 05:38 | 考える&学ぶ
2008年 02月 18日

アジアに広がる食料品価格の高騰/1

【豚肉価格の上昇にみる労働力過剰時代のおわり:先進国にさしかかる中国】と題する
アジア経済研究所のレポート(08/02/14、参照)がある。
金融当局は、この数年市場からの過剰流動性の解除に躍起になっている。こうした金融
当局の動きに加え、計画委員会が直接価格抑制への態度をみせたことは、政府が短期的
な暴騰を非常に恐れていることがわかる。この政府の動きが、インフレ心理を冷やすことが
できるのか、より加速させるのか、見ものである。このように、インフレ問題はオリンピックを
前にして、非常に緊急性を帯びてきた。

と書いている。

表題から推測できるように、過剰流動性のような単なる金融的・貨幣的現象ではなく、中国
経済の構造的変動に伴うインフレだから、簡単には収束できないというのが筆者の見解だ。
インフレを、どう分析するかは別としても、「今起こりつつある大きな変化」の分析は面白い。

中国経済の構造変動は別としても、食料品価格の高騰は酷いようだ。
WEBサイトから、ランダムに記事を拾ってみると、

○中国:食糧価格暴騰、動乱の導火線に(07/12/16、参照)、大紀元日本
・人民元高により、中国における消費者物価指数が顕著に上昇している。特に、食糧や油の
価格が暴騰しており、都市住民の生活への圧力が顕著に高まっている。また、奇妙なことに、
これにより、農民の収入が増加しているわけでは決してない。香港の評論の指摘によると、
1年がもうすぐ終わろうとしている現在、一部地区において、競い買い、買いだめの動きが現れ
ている。食糧価格の暴騰は、中国社会の動乱を導く危険性があるとメディアは指摘している。
○チャイナ・レポート/(08/02/08、pdf、参照
・ インフレは07 年に入って加速しました。消費者物価指数(CPI)は4%台を突破した後、
11 月には10 年来の高水準となる前年同月比6.9%の上昇率を記録し、12 月も同6.5%
でした。特に、基本食材の価格急騰が顕著で、肉類(豚肉、牛肉、羊肉とその製品)は38.8%、
穀物は6.6%、卵は11%と価格が急騰しました。07 年通年のCPI 上昇率は政府による当初
目標の3.3%を大きく上回る4.8%でしたが、基本生活用品の上昇幅が大きいため、市民が
体感した物価上昇圧力は統計数字以上のものがありました。
・ 上海市内の大手スーパーに足を運ぶと、豚肉はこの1 年ほどで500 グラム8 元(約120
円)程度から15 元(約225 円)へと、88%もの値上がりをみせています。世界的にビジネス
を展開しているマクドナルドの代表的な商品であるビッグマックの価格は07 年初めの11 元
から11.5 元(約172 円)へと4.5%値上がりしました。コカコーラも例外ではなく、ボトル入り
(600ml)コカコーラの小売価格も2.5 元(約37.5 円)から2.8 元(約42 円)へと12%高く
なりました。
・ 食品価格の高騰を中心としたインフレはこのままで更に進めば、市民生活、特に低所得者
の生活に深刻な影響を及ぼし、社会不安にも繋がる恐れがあります。国務院全体会議(内閣府
閣僚会議に相当する)において温家宝首相は、「当面の最重要目標は商品市場の供給と価格
の安定を確保すること」とその重要性を強調しました。
○中国で食料品高騰、民心の動揺懸念、朝鮮日報(07/11/15、参照
・中国では食用油の小売価格が過去1年で40%も上昇していた。
・中国国家統計局が13日に発表した10月の消費者物価指数(CPI)が前年同期に比べ6.5%
上昇し、社会消費品小売総額も同18.1%の急激な伸びを示したことで、インフレの危険信号
はますます鮮明になった。CPI上昇率は1996年12月以降、11年ぶりの高水準となった。
・基礎食料品は平均17.6%も値上がりし、特に豚肉(55%)、家きん類(38%)、野菜(30%)
などの高騰が目立った。このため、一部では食料品価格の高騰が民心の動揺を招き、天安門
事件のような大規模な騒乱に発展することを懸念する見方も出ており、中国政府は神経をとが
らせている。

c0048643_1192484.jpgどこから転載したか
忘れてしまったが、
視覚的に見るには
このグラフが良い。
典拠は、ウッカリ
失念したので悪し
からず。





しかし、このような食料品価格の高騰は中国だけではないようだ。
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by agsanissi | 2008-02-18 10:41 | 参考記事
2008年 02月 18日

遠方より.../道中楽あり

舞台の袖で、小声で話していたものを、突然、表舞台に引っ張り出して素っ裸にしてしまう
のも、どうかと思わないでもないが、「思考方法」/物ごとを考えていく上での方法論、或い
はアプローチの仕方という点で興味深い点があるので、コメント欄からそのまま採録して
おく。
僕は、明日、12時間ほどドライブして岩手に戻る予定なので、ゆっくり車中で思案して
みようかと思う。今晩、20時頃までに再反論をしてもらえると、道中、楽しみが増えますな!

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-16 14:43 x
市中巷間を移動販売しているヤキイモ屋が《日本のヤキイモ生産販売業》を考えて
商売はしていないと思う。街中の床屋が《日本の理髪業》を考えて商売はしていない
だろうし、髭面のおっさんがパンク修理してる自転車屋が《日本の自転車修理販売業》
なんて考えてはいないだろう。同様にして農家と称する大半は自分の築き上げてきた
成業の位置づけに《日本の農業》を代表しようなどとは考えないと思う。

〔農業〕という括りは〔工業〕という括りと同様、便宜上の区分に過ぎない。内訳を限りなく
展開するとして、末端に到ってりんご専門、アルストロメリア専門り、スイカだの牛乳
だの蔬菜だの稲だのと、細かい業態がある。で、各々の農家が、自分の分野外の業態
をも包含する《日本の農業》を日々考えているだろうか?北海道の酪農家が沖縄の
熱帯フルーツ農家を眼目に置いて《日本の農業》を考えるだろうか?

「日本の農業の本質的問題」を問うとするならば、すべての農家に共通共有できる問題
は何かを、レリーフのような浮き彫りにして論考を進めるべきだろう。《日本の~~~》と
いう、あたかも同じ土俵に立っているかに錯覚して、便利な言葉に潜む落とし穴に嵌まる
まい。


Commented by agsanissi at 2008-02-17 02:35 x
日本の百姓は、日本の自然風土、歴史、社会システム、法制、慣習などなどの共通の
「土俵」の上に立っているという前提で考えているつもりですが、これに何か問題がある
とでも?
それとも、百姓の自己認識が「日本の農業」のあり方を規定するとでも云いたい訳ですか??


Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-18 01:57 x
厄介だなこりゃぁ。自問自戒のつもりが薮蛇に(笑い)。

語彙のイメージが異なっている節があるやも。「土俵」ではなく、「舞台」と言い換えた方が
よいか。いずれであっても、農家は国内に存する限り、社会システムや国の法制で等しく
網を受ける。が、各地域の多様な自然風土や歴史、慣習に『共通の「土俵」』はあるのか
ないのか…。もっとも、暮らしの文化の広がりにはドミノ式伝播があるから、発端とか起源
を辿りながら時系列で現時点での基層を考察はできる。

また繰り返してくどいが、"日本の"と、冠を前置して「日本のヤキイモ屋」の『共通の「土俵」』
というものを考えるとして、どんな意味があるかである。全国で商売している個々のヤキ
イモ屋は、条件はみな違うなかで、自分のやり方で商売している。「ここでやっている我が
ヤキイモ屋」のあり方は考えるだろうが、"「日本のヤキイモ屋」のあり方"など考えては
いまい。…ここで"ヤキイモ屋"を"農業者"に置換しても同様と私は見ているわけだが(例外
はあるかも知れぬが)。

Commented by 信州地湧仙人 at 2008-02-18 01:58 x
各々農業者の周囲の環境は皆異なっている。唯一無二だ。『共通の「土俵」「舞台」』を想像
しても良いが、逐一本人に総当りして確かめない限りは仮想に過ぎぬ。仮想を根拠にした
思考の展開は自家撞着か、単なる空想に到る。ようするに、"日本の"と、括るもしくは束ねる
ことで(統計などの調査データ)、何かしら抽出できると考えるのは幻想のような気がすると
言いたいだけだ。

『たまたま日本という国で、農のある暮らしをし、日々生活を耕している』が主で、従たるもの
に『主を脅かすものあらば迎え撃つ』気概に満ちた農家はあるのかね…。そもそも「日本の
農業」とは何ぞや?「日本の農業」を何かで規定できるのか?否、規定しなければならない
ものなのか?仮に規定できたとして「日本の農業」のあり方を代表できる農家、または農家
集団は存在しうるのか?それに該当するものを選出できるのか?スポーツ界のように「日本
の農業者選手権大会」を開催できる性質でもあるまいが。


Commented by agsanissi at 2008-02-18 04:52 x
コメント欄で応えるには、ちと厄介な面もある。取敢えず要点だけ、...。
いろいろな問題を、混同しておられる。
1.個と普遍性。具体的な生命は、如何なるものであれ唯一無二です。では、生命とは何か
という分析は無意味か?個々の全ての生命を総当りした結果として、帰納的にのみ生命を
論ずること、方法論としてそれ以外の方法はすべて誤りか?
2.仮説を立てて、それを実証していく方法は考え方として、あるいは学問の方法として、
自己撞着乃至単なる空想に到る方法なのか?非常に狭く限定して、例えば数学の仮定法
という証明法は、全て空想の産物か?
3.なぜ、日本の農業問題を論ずる論者は農業者以上に沢山居そうなのに、「日本の焼き
芋屋」問題を論ずる焼き芋屋学者は居ないのか?
イ.日本の歴史・社会システムの中で培われてきた焼き芋屋という存在がないから。
ロ.外国の焼き芋屋によって、その存在自体が脅かされている「日本の」焼き芋屋という存在
がないから。
ハ.焼き芋屋という社会的職業を規制する法制や省庁は、仮にあったとしても、農業者とい
うあり方を規制するシステムに比較すれば、問題にするに足りないほど小さいから。
4.学問の方法という点から考えると、
民俗学の対象は、一般論から入っても実りは少ない。何故なら、最初から「個の特殊なあり
方」を問題にしているから。他方、外国との競争に曝され存在自体が脅かされている「日本の
農業」を考えようとする場合に、必ず個々の農業者の「特殊なあり方」から思考を開始しなけれ
ば、自己撞着・空想的な議論に陥らざるを得ないのか?


★「信州地湧仙人」には、最初から不利がありますね。舞台の袖でしか発言できないのに、
僕は、舞台の上から、大声を出せるのだから(尤も、文字数では負けてますな)。でも、僕
には勝ち負けという意識は皆無ですから、「不利」などと、くれぐれも小人の遅疑をなさらぬ
よう。ただ興味深い問題提起とのみ受け取っております。
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by agsanissi | 2008-02-18 05:15 | 考える&学ぶ
2008年 02月 17日

曖昧さの「安心と不安」

08/02/15発行のJMM『オランダ・ハーグより』/第185回「てろてろ」と題する
ハーグ在住・化学兵器禁止機関(OPCW)勤務の春具氏の、エッセーは、いろ
いろな意味で面白い。エッセーの全文は、来週にはJMMのサイト(参照)で読め
ると思うけれど、僕の視点から見て「面白い」と思う論点を摘記しておく。
今回は、殆ど全文が引用だから文字色は変えない代わりに、段落ごとに▽を
付けておく。

久しぶりに帰国して、日本のテレビの話、
▽例によってメディアでは、大学の先生、評論家、ジャーナリスト、「食品表示アド
バイザー」などというわたくしははじめて耳にする専門家の方などなどの、識者・非
識者のみなさんが喧々諤々、意見を述べておられたが、いずれもコンプライアンス、
悪意の犯罪、業務上過失なんぞの文脈で、穏当なアプローチで論じておられました。
▽だが、おもしろく思えたのは、わたくしの見聞するかぎり、この事件をテロリズム
の視点から論じた論者がほとんどいなかったことである(数人はいたらしいけれど)。
これは興味深いことではないかと思うのですね。なぜなら、ヨーロッパに住んでいた
ら、これだけ不気味な事件ならば、すわテロか、と即座に反応すると思うのです。怪
人二十面相かアルセーヌ・ルパンの仕業と思われるほどの奇怪な事件なのに、だれも
テロだとは思わない、思っていない。
▽クリントン政権で国家安全保障問題補佐官を勤めたアンソニー・レイク氏は、テロ
であれ、事故であれ、確信犯罪であれ、わたくしたちはあたらしいタイプの事件に遭
遇すると、往々にして既製の思考回路をもって出来事を捉えてしまいがちである(と
論じている)。
◆これは、僕も実に不思議に思うところだ。08/02/01の「食生活を乱したのは誰?」
の中で、
中国の、たった一社の工場から始まった事件か事故が、こんなに広範囲な騒動を引き
起こせるとすれば、遅効性の毒物を意図的に混入して、冷凍食品として持ち込めば、
日本中を大混乱の巷に簡単に叩き込めるな、と考えるようなテロリストがいないこと
を願いたいね。

と書いたけれど、現状は様々な偶然の要素に恵まれて「安定」しているかに見える
けれど、物凄い脆弱性を内包した国家だと考えている。
こういう論点から論じないというのは、何か暗黙の了解でもあるのじゃないか、いわゆる
「空気」とも言うべき、一種のタブーでもマスコミ界にあるのかと疑いたくなるね。

▽彼の流儀にならうならば、テロ対策は想像力の枯渇により、往々にして後手にま
わってしまう。ですから、たかがギョーザなのでなく、こいつはテロかもしれないな
と想像しておくことが必要ではないか、とレイク氏はすでに言っているのであります。
なにしろ今夏には、北京でオリンピックが開催されるのだ。テロリストが予行演習を
したっておかしくないのではないか。
▽そして犯罪がテロリストの仕業だったらどうするか。どのように扱うか。

◆この後、テロリストという、最初から近代法の埒外に立っている被疑者を「公平に裁
く」ことの難しさを論じた後、
▽ギョーザ事件の容疑者が捕まって、テロリストグループの仕業という疑いがでよう
ものなら、ひとびとは興奮し、即座に有罪を叫び、刑の執行を叫ぶのではないか。そ
の様(さま)を想像すると、わたくしはイラクにおけるサダム・フセインと彼の閣僚
たちの裁判を思い出してしまう。大衆の興奮は、往々にして事実の確認と冷静な判断
にもとづいてはいないだけでなく、興奮は陶酔となって収拾がつかなくなるのであり
ます。わたくしはその興奮が「法の支配」をなおざりにすることを危惧するのですね。
杞憂だよ、日本はイラクとは違うよとおっしゃるかもしれないけれど、どこの国でも、
メディアと大衆はお互いに寄りかかり合いながら共存しているのであります。

◆一種の集団ヒステリーに陥りやすいかどうかという点で、国民性があるのかどうか
僕には分からないが、「とにかく一朝事があると、日本人はメダカの群れのように、誰が
指令するわけでもないのに、見事に同じ方向を向いて走り出す」(08/02/14参照)
性向があり、かつマスコミはそれを煽り立てるという点で、杞憂でもなんでもないと考え
ている。
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by agsanissi | 2008-02-17 04:20 | 考える&学ぶ